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トールクラブひまわりの会掲示板

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45.乙武氏への抗議状  
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:26
さっき、週刊新潮の編集部に電話しました。電話に出たのは、バイトの女の子なのでしょうか。何も聞いても、記者の人が判断します、ばっかり。(笑)あの感じだと、外部の人間の文章を載せることはなく、記者が取材して、記事を書くという感じのようです。で、週刊誌のシステムがどうなってるのかはさっぱりわかりませんが、まあ、取材の電話がないということは、私の原稿はボツだと思いますので、ここでご紹介しますね。(とまで書いて、原稿を載せたら、長すぎる、と出て、消えてしまいました。悲)もう一度トライです。

貴誌9月1日号に掲載された乙武洋匡氏の特別読物「なぜ僕は自分を"カタワ"と呼ぶのかー障害を笑えてこそ"真のバリアフリー"」を読みました。私はデイ多佳子と申します。2005年に「大きい女の存在証明」を彩流社から刊行し、背の高い女性たちのトールクラブ「ひまわりの会」を立ち上げ、日本社会から背の高い女性たちに対する差別意識や暴言等をなくすための活動を始めた者です。
 
 この6年間に、社会の少数派ー"平均的"という形容詞と縁のない人々の問題は同根だと学びました。よって、障害者の視点から日本社会に問題提起する乙武氏の意図は十二分に理解し、その活動には心から敬意を表する者です。

 しかしそれでも、今回の記事は、私の目には、問題ありと映りました。というのも、明らかにそこには、乙武氏の限界が投影されており、かつその限界をご自身で正当化されているからです。限界とは、乙武氏が実に恵まれた環境にありながら、生計をたてる社会に問題提起せねばならないディレンマ、いや、恵まれているからこそ問題提起ができるのだという二律背反的な状況から生まれる、"主流"におもねる "処世術"です。記事の論旨の一つ、"障害を笑いのタネにする"という自嘲は、"処世術"以外のなにものでもありません。



46.Re: 乙武氏への抗議状 2
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:27
確かに、当事者にとって"処世術"は必要です。 いつもいつも世間に腹を立てているわけにはいきません。が、"処世術"は、当事者に一時しのぎの満足感を与え、社会も表面上は気持よく受け入れてくれるかも知れませんが、ほんとの意味で社会を変える実効力にはなりません。乙武氏の問題は、「差別や偏見をなくそうというスタンスより、障害がある人もない人も分け隔てなく接し、慣れが生じるほうがいい」(55ページ)と、"処世術" で"主流"社会にすりよることで、問題の本質を見失ってしまっていることです。それは、私には、乙武氏が記事の中で抵抗を示されている、障害者に対する一律的な"上から目線"や、害を"がい"とひらがなに変えるといった表面的かつ空虚なきれいごとでごまかそうとする社会の姑息さに迎合するものと大差なく思われます。

 過去6年間、背の高い女性たちとの連帯を模索してきて、私が学んだことは、社会と向き合うには、内向きと外向きという二つの方向性をもつ活動があること、そしてどんなことがあっても、"差別や偏見をなくそうというスタンス"を見失ってはいけないということです。なぜなら、そのスタンスには、人間としてのintegrityとdignityが賭されているからです。手持ちの英和辞典は、integrityとdignityを、高潔、誠実、威厳などと訳していますが、私自身は、日本語には、これらの英語の意味をぴたりと表現する言葉はないのでは、ぐらいに思っています。それは、人間を人間存在たらしめる根源的な価値です。人間なら絶対に失ってはいけない価値であり、その価値の獲得のため戦う、つまり自分が人間らしく生きるために戦うのは、人間としての社会的義務ぐらいに私は考えています。乙武氏が主張する「障害をネタにハハッと笑える社会こそが、真のバリアフリー」(56ページ)といったコンセプトこそ、人間のintegrityとdignityを凝視・追求しない、能天気な日本社会を象徴するものではないでしょうか。


47.Re: 乙武氏への抗議状 3
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:29
背の高い女性たちも、ただ一度の人生を謳歌するために、人それぞれ多種多様な"処世術"を駆使して生きています。たとえば、自分はモデルになれる体型なんだと言い聞かせて、他人からの暴言を聞き流すとか、背の高い女性が好きな男性もたくさんいるという現実を知って安心するとか、その他もろもろ、差別と偏見に満ちた社会の厳しい現実に目をつぶり、自分で自分を必死で受け入れるためにさまざまな個人的戦略を練って、日々を過ごしています。生き抜くためのどんな"処世術"も誰にも批判はできません。
 が、明確に理解されねばならないのは、"処世術"とはあくまでも、当事者が仲間同士でなぐさめあい、力をつけあい、そして社会の現実に立ち向かっていくエネルギーを獲得するための"心のよりどころ"を提供してくれるに過ぎないということです。それが、記事の中で紹介されているような、肌やら薄い髪、脳性マヒといった、"一般的にはマイナスとされる身体的特徴をネタに笑いを取る"(55ページ)当事者お笑いコンビの笑いでしょう。当事者同士が 内向きに"傷をなめあい"、"泣き笑い"を通して互いを励ましあうことは誰にも止められないし、当事者にとって必要なことです。
 
 が、そんな内向きの笑いを、外部の非当事者が当事者同様に分かち合えるものでしょうか。分かちあわねばならないものでしょうか。自嘲をえげつなく、痛々しく感じる当事者も非当事者もいるのではないでしょうか。
 私はもう50代も半ばを過ぎた人間です。が、この年齢になっても、若いときに言われた「太平洋にごぼう」だの、今だに言われる「デカイなあ」といった言葉をネタに、自分を笑いものにしようとは絶対に思いません。他人が"ひとごと"に向ける底の浅い笑いは、かれらが無意識に持つ差別や偏見にお墨つきを与えるだけで、背の高い女性たちを取り巻く社会的環境を変えることはできないし、なによりも私にとって一番大事な、私自身のintegrityとdignityを自らの手で傷つけるだけだからです。


48.Re: 乙武氏への抗議状 4
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:30
何年か前に、金太郎の格好をしてイベントに出演することで、ハゲの劣等感を克服したとマスコミにとりあげられた方と何度か連絡をとりあったことがあります。その方はご自分を"勝ち組"と称されましたが、私は、ハゲを自ら吹聴して回り、金太郎の格好をして他人の前に立たねば劣等感を克服した気持になれないのなら、それは"負け組"コンセプトだと申し上げました。劣等感の真の克服は、一時的に高揚した気分にしてくれる、それも金銭やら知名度といった副産物をもたらす可能性のある、他人の目を意識した準タレント的自嘲パフォーマンスではなく、あくまでも個人のempowerment(この言葉も日本語にはない、ぐらいに私は考えています、たった一人ででも人が社会と関わることで、社会と対峙していく力を自ら身につける、といったところでしょうか)による、地道な行動・活動によってのみ可能と私は考えるからです。
 
 乙武氏が、ご自分を「カタワ」と呼ぶのは、乙武氏の自由意志であり、"主流"社会と向き合うための個人的"いちぬけた"戦略です。誰にも批判はできません。しかし、そのスタンスは、他の障害者の方々にも力—社会と向き合うエネルギーを与えるものなのでしょうか。金太郎の格好をして人前に立っても、決してほかのハゲの方々のempowermentにはつながらないのでは、と考えた同じ思いを、今、私は乙武氏の「カタワ」自嘲論に対して感じています。乙武氏が、"主流"社会にのみ目を向け、「真のバリアフリー」といった美名の下、少数派の自嘲を奨励されるのなら、「35年生きてきて、差別や偏見を感じたことが一度もない」恵まれた人の傲慢さではないでしょうか。少数派の、あくまでも人間としてのintegrityとdignityを尊重しようとするなら、自嘲など決して許されてはならないはずです。そして、乙武氏が、日本社会が臭い¥ものにふたをしようとしているように感じられるとしたら、それは乙武氏自身が、“上から目線”を持っているからではないでしょうか。 


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