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GONsan's “気まぐれ掲示板”

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10795.9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(10)  
名前:GON    日付:2021/10/11(月) 13:13
 境内に足を踏み入れますと、3名の女性とご住職がお話し中でありました。ふくよかなお顔から、この方が副住職の鈴木省我sanなのでしょうネ(^.-)☆
 会釈しながらこの方々の傍らを通り抜け、本堂へ。
 本堂に上がり、振り返りますと、左右の壁面をスクリーン代わりに、2機のプロジェクターで映像作品を放映中でありました。本堂内では3名の方々が視聴しておられます。
 そんな中、GONsanは、映像アート作品よりも本堂内をジックリと拝観です(^.-)☆
 本堂内を一通り画像に納めまして、それでは映像作品を鑑賞しようと振り返りますと、いつの間にか副住職sanが…
 遅ればせながら、「本堂内を画像に撮らせて頂きました…」と許可を求めますと、「あぁ、イィですよ。ご自由に構いませんよ。でも、何処かでお会いした事がありますネ…」ですから、眼が点に(^-^;
 今まで、何度か鞆のお寺巡りをしておりますGONsanですけど、どちらのお寺でもご住職と会話しました事は一度もありませんから、どなたかと勘違いしておられますのかも…
 鈴木副住職sanも、暫し、記憶を呼び戻しておられますようなお顔で…
 そして、「確か、玉泉寺の難波前住職の通夜の場で…貴方は、玉泉寺の総代をしておられますか?…」ですから、もぅビックリ。
 難波前ご住職の通夜と言いますと、令和元年の11月でしたから、既に2年近くも昔の事に…
 この通夜にはGONsanも出掛けておりまして、最初、玉泉寺境内から通夜が始まりますのを待っておりましたけど、ズッと立ちっ放しもしんどいですし、本堂内に眼を向けますとイスの空席が目立ちましたから、何の躊躇も無く本堂へと上がり、正面に向かって左側端に座りましたような(^-^)
 そして、通夜が始まります前に、スマホを取りだしパチパチと…
 そぅそぅ、思い出しました。本堂の正面に総代・役員の皆様、右側にご親族関係者、左側に日蓮宗関係のご住職の皆様…と、ご列席でありました。
 そのような厳粛な環境下で、お構いなしにパチパチやっておりますGONsanでありました。
 勿論、本堂内の皆様凡てを洩れなく画像に(^.-)☆
 そぅですねぇ、ご列席のご住職の皆様にスマホを向けています時でしたか…お一人のご住職と、スマホのレンズを通してバッチリと視線がガッチンコ(^-^)
 あまりに眼光が鋭いこの方をズームアップで更に2枚ばかりパチリ。
 うん、うん、今から当時を思い出しますと、その方は、多分、鈴木副住職sanでしたのでしょうねぇ〜ですから、GONsanを憶えておられましたのかも…
 GONsanにとりましては、鈴木副住職sanは大勢の中の単なるお一人でしたけど、あぁ言う場で特異な動きをしています者は、礼儀知らずの不心得者として強く印象に残られましたのでしょうねぇ〜
 それにしましても、この日は、帽子もマスクも着用していますにも拘わらず、「確か、玉泉寺の難波前住職の通夜の場で…」ですから、本当に驚いてしまいました(^-^;
 「私は総代でも何でもなくて、単なる檀家の一員です。空席がありましたから、座っていました。写真撮りますのも容易ですし…」と弁解しますと、一層、GONsanの顔を、改めて、まじまじと見つめておられましたネ(^.-)☆
 その内、話題は映像アート作品に…
 「福山大の学生sanの作品ですけど、仲々素晴らしい出来栄えですよ…一見の価値ありですよ…」と、副住職の太鼓判。
 なら早速…と、スクリーンに眼を向けましたら、エンドロールの段階でありました。
 副住職sanはと眼を向けますと、既に他の方達と談笑中。これをイィ事にサッサと本堂から退散のGONsanなんでありました(^.-)☆
 山門に向かっておりまして眼に入りましたのが、「南無日親大聖人」の石碑でありました。

 ◆日親

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日) - 長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。

 ・生涯
 上総国に生まれる。妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427年)に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。永享5年(1433年)には中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導したものの、その厳しい折伏に対して反発を買い、同流から破門された。
 同9年(1437年)再び上洛し、本法寺を開く。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止された。永享12年(1440年)2月、禁に背いたために投獄され、本法寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が殺されたことによって赦免され、本法寺を再建。寛正元年(1460年)肥前で布教したために再び本法寺を破却され、8代将軍足利義政からの上洛命令を受けた。同3年(1462年)11月、千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となるが、翌年(1463年)赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建する。長享2年(1488年)に入寂、享年82。

 ・日親と不受不施義
 日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である立正安国論(現在国宝とされている日蓮真蹟本)が建武3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程である。このような状況の中で、日親は不受不施を主張した。

 ・日親の活動
 日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる。

 …と、こんな日親上人であります。
 日蓮宗のお寺巡りをしておりますと、時たま、綿帽子のような白い綿を頭に被りました仏像を眼にしますけど、この仏像が「鍋かぶり上人」であります。
 顕政寺sanと、日親上人sanとの間に、どんな関わりがありますのか分かりませんけど、立派な「南無日親大聖人」の石碑が存在ですから、次回、再訪の機会がありましたら、お尋ねしてみます事に(^-^)//"













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