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トールクラブひまわりの会掲示板

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56.変わるということ 返信  引用 
名前:くるみ    日付:2011/9/27(火) 11:1
多佳子さん、ニュースレターありがとうございました。みなさんお元気そうで嬉しいです。
最近またまたこの年で初体験をしました。仕事を通じて知り合い5年ほど付き合ってた友だち(?)と縁切りしました。彼女は会う度に身長が大きいこと、足が長すぎること、どこに行っても目立つこと、その他気に障ることたくさん、誰がいてもどこでもお構いなしに平気で言ってきました(怒)どんどんエスカレートしてきたので、ついに私も切れて「身長はどうすることもできないんだよ!今までコンプレックスをかかえ遠慮しながら生きてきた私の気持ち、あたあなたにはわからないと思うけど‥もうこれ以上我慢できません」とメールを送りさよならしました。(面と向かって言う勇気はなかったし惨めに思えたので..)最初はすごく迷ったんだけどなんかとってもすっきり爽快!わまりに友だちや仲間が1人もいなくなっても嫌なことは嫌!許せないことは許せない!彼女からのメール「あなたがうらやましかった」はぁ?(怒) うらやましいならあんな上から目線でバカにした言葉は出ないと思うけど‥
こんな初体験できたのもひまわりの仲間のおかげです。ありがとうm(_ _)m



57.Re: 変わるということ
名前:たかこ    日付:2011/9/28(水) 10:39
くるみさん

がんばりました。よかったです!!!(笑)
それにしても、この「うらやましい」という気持ですよね、問題は。。うらやましいと思ったら、自分を高めていくことで、人のことをうらやましく思う自分を乗り越えたらいいのに、姑息な人は、自分を高めることはせず、人のことを悪く言ったりして足をひっぱることで、自分の位置を確保しようとします。要するに、自分は変わろうとしない。これでは、まったく進歩はないわけで。。
そんな、腐った泥水の中でしか生きられないぼうふらみたいな人種を相手にして、私たちが傷つくことないですよ。。孤高という言葉があります。そういう言葉を自分の中においておくのもいいんじゃないでしょうか、一匹狼になるかどうかは別にして。。(笑) 
でも、一匹狼に惹かれる人もいっぱいいると思いますから、孤高に生きても、絶対に友だちがいなくなるということはないのでは。。むしろ、本物の友だちが増えるような気がします。。。

55.ニュースレター第6号 返信  引用 
名前:たかこ    日付:2011/9/26(月) 22:34
さっき、みなさんに発送しました。ご意見、お待ちしてます。

53.バリバラと乙武氏 返信  引用 
名前:たかこ    日付:2011/9/21(水) 1:51
友達から、以下情報をもらいました。

「バリバラ」って聞いたことありますか?
今年NHKが番組に取り上げてから話題になっているらしいです。
もしかしたら乙武さんの記事もその延長のものかもと思いますがどうでしょうか。

ttp://www.youtube.com/watch?v=1L5lT_AzdPQ&feature=related

NHKのバリバラはこんな感じで紹介されています。
ttp://www.nhk.or.jp/kira/post/baribara.html

日本(にほん)のテレビ史上初(しじょうはつ)の障害者(しょうがいしゃ)バラエティー番組(ばんぐみ)…それが「バリバラ」。バラエティーを通(とお)してバリアフリーを考(かんが)えたいという願(ねが)いを込(こ)めて名付(なづ)けました。
司会(しかい)の玉木(たまき)幸則(ゆきのり)さんは「僕(ぼく)らもふだん、障害(しょうがい)をネタに笑(わら)ったりおもろいことをやったりしている。バラエティーから見(み)えてくる福祉(ふくし)の問題(もんだい)もある」と言(い)います。「笑(わら)われるのではなく笑(わら)わす」…「バリバラ」はある意味(いみ)、実験的(じっけんてき)かつ挑戦的(ちょうせんてき)な番組(ばんぐみ)です。 障害(しょうがい)のある人(ひと)もない人(ひと)も、一緒(いっしょ)に笑(わら)いながらバリアフリーについて考(かんが)えてみませんか。

バリバラ・グランプリ獲得作品
ttp://www.youtube.com/user/byoukidayo?blend=8&ob=5#p/u/0/u2GBm1GDymc

画像を見ました。乙武氏の書き物・戦術より、はるかにすばらしいと思いました。少なくともパフォーマーたちは、はっきりと自分は差別を受けてきた、悔しい思いをしてきた、と話してます。そう言えるようになったということは、この方たちは、ほぼ癒されるということでしょう。パフォーマンスを見てて、ああ、よかったな、と思いました。脳性マヒブラザースも、障害がコントができるレベルなのですから、自分たちの飾らぬ存在をアピールしているわけで、これも共感を覚えました。
 この方たちのパフォーマンスから、乙武氏のそれを考えると、やはり乙武氏の臭さを感じてしまいました。かれらは、正直に自分たちの生臭い存在を知ってもらおうとしている。でも、「35年間、一度も差別も偏見も感じたことのない恵まれた」乙武氏は、いったい何を訴えたいのか。自分をカタワと呼ぶのも、かれらの向こうを張って、まねをしてるだけじゃないのか。。大手出版社がバックにいて、世間にすりより、本音が出せない人間がきれいごとを言ってるだけじゃないのか、という感覚です。
もう一つ気になったのが、「こわれ者の祭典」というネーミングかな。。私たちが、「アマゾネスの会」と名づけたら、非当事者は聞いて気持ちがいいかなあ。。かれらのパフォーマンスを見ているのが誰か、ということも気になります。同じ障害者と介護の人たちなのか。。それとも非当事者なのか。。もし前者なら、私の原稿で書いた仲間内の処世術ということになりますが。でもNHKで放送してるのなら、非当事者を対象にしていることになりますよね。。かれらが、自嘲ネタをだしませんように。かれらがするべきことは、脳性マヒの障害があっても、健常者と同じように、漫才ができるのだよ、という事実だと思います。
この世は、全員障害者、と歌っていました。私の友達は、みんながマイノリティ、というタイトルの本を大昔に出しています。同じ意味だと思います。障害の害、をひらがなにする、なんて姑息なことを考えずに、障害、という言葉を使わないようにするのはどうかなあ。。。それもこれも、すべて、私たちが言いたい「身体的特徴を口にしない」が飲みこむこと、可能だと思うんですけど。。。(笑)



54.Re: バリバラと乙武氏
名前:たかこ    日付:2011/9/21(水) 2:5
さっそく、NHKにメールを送りました。(笑)

はじめて番組のことを知りました。すばらしい、と思います。ただ一つお願いです。自嘲ネタだけは絶対にしないでください。一時的なその場限りの笑いは、結局のところ、当事者の気持ちも非当事者のそれも傷つけるだけ(傷ついていることを隠してしまうのが、自嘲の罪です)で、決して社会をよりよい方向に変えていく力をもたない、と考えるからです。よろしくお願いします。

52.乙武氏への抗議状ーだめおし(笑) 返信  引用 
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 13:58
東京に抗議状を送ったあとも、しばらく問題を考えてました。で、思いついたこと。。乙武氏って、しょせん、大手出版社の金儲けのツールになってるだけ、ということです。(笑)大手出版社は、正しいことのために本は出しません。売れる本を出します。売れる本を出した編集者は出世するでしょう。どんな本が売れるかー以前から書いてますが、処世術にあふれた本です。つまり、乙武さんみたいなかわいそうな人でもこんなに明るく生きてるんだから、私もがんばらなくちゃ。。私は健常者で、乙武さんより恵まれてんだから、幸せと思わなくちゃ、と思わせてくれる本です。で、乙武さんは、たぶん大出世しただろう「五体不満足」担当の編集者がいる大手出版社をバックに、処世術本を出している限り、印税が入ってきて、生活できる、つまり、彼は、私が原稿で書いたような、姑息な処世術そのものなのであり、日本社会を変える気はさらさらなく、また変えることはできない!!!! 結論は、彼は、有名でいろいろもっともらしいことを言ってるわりには、何の役にも立たん、ですね。。(笑)

49.乙武氏への抗議状 5 返信  引用 
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:32
乙武氏に欠如しているように思われるのは、ご自分に与えられた恵まれた環境がもつ巨大なエネルギー、つまり知力、資力、能力などを、多種多様な少数派の人々のempowermentのために、すべての人々にとって社会が少しでも生きやすいものなるように、外向きに、社会の底上げに使っていこうとする視点でしょうか。
 
 記事では、乙武氏には、障害をギャクにさえしてしまえる"余裕"がある、とありますが(55ページ)、そんな余裕は、あくまでも社会の"主流"から見た、"主流"が受け入れ、扱える範囲内での"余裕"でしかありません。乙武氏のほんとの余裕とは、ご自分のエゴなり欲をうち消すことで、より広い視野をもって、乙武氏ほど恵まれていない、無数のさまざまな人々のために社会活動ができる、その懐の深さで発揮されるべきものです。それが、"35年生きて、差別や偏見を感じたことが一度もない"恵まれた人の社会的使命と私は考えます。
「カタワ」論ですが、記事から分からなかったのは、乙武氏が、ほかの障害者をも「カタワ」と呼ぶのかどうかです。アメリカでは、非アフリカ系の人間が、アフリカ系アメリカ人を「ニガー」と呼べば、人種差別の違法行為となりえますが、スパイク・リーの映画でも見られるように、アフリカ系同士が「ニガー」と呼び合うのを、非アフリカ系は批判することはできません。「カタワ」に関しても、当事者と非当事者の力関係を見据えた視座が必要なのでは、と考えます。



50.Re: 乙武氏への抗議状 6
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:34
私自身は、恵まれてきた乙武氏が「重度の障害があるのに明るい」(57ページ)おかげで、口封じされ、いやな思いをしてきた人間です。つまり、背が高いから、足が大きいからと、他人の暴言に悩んできたと他人に告白しようものなら、乙武氏と比べられて、あんな障害のある人でもあんなに明るく生きてるのに、あなたは何と贅沢な、その程度で悩むな、という論法で責められてきたのです。自分を他人と、とりわけ自分よりかわいそう、自分より下と思える人と比較し、優越感を感じることで、自分の状況を納得させようとする"処世術"は完全に間違っています。しかし、「勝ち組」「負け組」といった言葉が全国を席捲する日本社会は、そんな姑息な権威主義的処世術を奨励することで、少数派たちの悩みを口封じしてきたのではないのか。恵まれているがゆえに"明るい"乙武氏は、もしかしたらご自分がそんな日本社会のいびつさにおおいに貢献してきたのではないか、と自問自答されたことはあるでしょうか。少なくとも、日本社会が認めたがる姑息な処世術を打ち破るのは、"主流"社会に向けての当事者の"明るい"自嘲ではないことだけはご理解していただきたいと思います。

 記事では、乙武氏が赴任した小学校の職員室でのエピソードが紹介されています。共感を覚えました。トールクラブにも、小学校で教えた経験をもつAさんがいます。Aさんによると、子供たちに絵本を読み聞かせる教師の中には、悪者となった大きなマグロの話をして、Aさんの前で、マグロはAさんと同じだねえと子供たちに平気で言い、子供たちといっしょに大笑いする人がいるそうです。教室全体の笑いの渦のなかに立たされて、どれだけAさんは傷ついたことか。問題意識をもたぬ、理解できぬ教師のいる教育現場、とりわけ小学校の現実は将来を危ぶませるものがあります。
 乙武氏は子供たちに、ご自分と同様の自己肯定感をはぐくんであげたいとか。子供たちの自己肯定感は、決して自嘲やら無神経な教師からは生まれません。将来の世代のために我々が声をあげ、しなければならないことは、目立たぬとも、日常のここかしこに山積しています。“臭いものにふたをする”どころか、悪臭は、社会のあらゆるところから臭ってきています。


51.Re: 乙武氏への抗議状 7
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:35
1ケ月ほど前、私は、ギネスブックを発行しているロンドンの会社に、質問状を送りました。どうして、世界一背の高い男女、背の低い男女、のような、人々の低俗な好奇心だけを満足させるような情報を必要とし、公表せねばならないのですか、と。まだ答えはありません。答えがあるとも思っていません。
 しかし、大事なことは、池の水に投げ込まれた小石が波紋を広げていくように、一人一人の人間が、社会に小さな変化を起こしていこうとする気持ちを持つことです。社会はみんなのもので、自分たちで作っていくものだからです。乙武氏のおっしゃるように、問題は一人ひとりが能動的に考えるべきです(57ページ)。
そして必要なのは、たった一人ででもいい、池に小石を投げ込む勇気です。どんなに小さなことでもいい、疑問に思うことがあれば、まず自分の足元から小さな行動を起こす。そのために必要なエネルギーは、社会にすりよることのない、個人のempowermentからしか生まれません。
 先日、私は、電車の中で、若者やサラリーマンで占拠された優先座席の前に立っても席を譲ってもらえないおばあさんに、声をかけました。「おばあさん、席を譲ってください、と言えばいいんですよ」と。おばあさんをほんのわずかでも力づけられたことを願うばかりです。
 
 乙武氏の存在は確かに稀有なものであり、お持ちのエネルギーには巨大なものがあると思います。だからこそ乙武氏からは、私自身のempowermentにつながるエネルギーをいっぱい受け取りたいと思います。地味であっても懐の深い、広い心をもった、息の長い勇気ある活動を期待するものです。

45.乙武氏への抗議状 返信  引用 
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:26
さっき、週刊新潮の編集部に電話しました。電話に出たのは、バイトの女の子なのでしょうか。何も聞いても、記者の人が判断します、ばっかり。(笑)あの感じだと、外部の人間の文章を載せることはなく、記者が取材して、記事を書くという感じのようです。で、週刊誌のシステムがどうなってるのかはさっぱりわかりませんが、まあ、取材の電話がないということは、私の原稿はボツだと思いますので、ここでご紹介しますね。(とまで書いて、原稿を載せたら、長すぎる、と出て、消えてしまいました。悲)もう一度トライです。

貴誌9月1日号に掲載された乙武洋匡氏の特別読物「なぜ僕は自分を"カタワ"と呼ぶのかー障害を笑えてこそ"真のバリアフリー"」を読みました。私はデイ多佳子と申します。2005年に「大きい女の存在証明」を彩流社から刊行し、背の高い女性たちのトールクラブ「ひまわりの会」を立ち上げ、日本社会から背の高い女性たちに対する差別意識や暴言等をなくすための活動を始めた者です。
 
 この6年間に、社会の少数派ー"平均的"という形容詞と縁のない人々の問題は同根だと学びました。よって、障害者の視点から日本社会に問題提起する乙武氏の意図は十二分に理解し、その活動には心から敬意を表する者です。

 しかしそれでも、今回の記事は、私の目には、問題ありと映りました。というのも、明らかにそこには、乙武氏の限界が投影されており、かつその限界をご自身で正当化されているからです。限界とは、乙武氏が実に恵まれた環境にありながら、生計をたてる社会に問題提起せねばならないディレンマ、いや、恵まれているからこそ問題提起ができるのだという二律背反的な状況から生まれる、"主流"におもねる "処世術"です。記事の論旨の一つ、"障害を笑いのタネにする"という自嘲は、"処世術"以外のなにものでもありません。



46.Re: 乙武氏への抗議状 2
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:27
確かに、当事者にとって"処世術"は必要です。 いつもいつも世間に腹を立てているわけにはいきません。が、"処世術"は、当事者に一時しのぎの満足感を与え、社会も表面上は気持よく受け入れてくれるかも知れませんが、ほんとの意味で社会を変える実効力にはなりません。乙武氏の問題は、「差別や偏見をなくそうというスタンスより、障害がある人もない人も分け隔てなく接し、慣れが生じるほうがいい」(55ページ)と、"処世術" で"主流"社会にすりよることで、問題の本質を見失ってしまっていることです。それは、私には、乙武氏が記事の中で抵抗を示されている、障害者に対する一律的な"上から目線"や、害を"がい"とひらがなに変えるといった表面的かつ空虚なきれいごとでごまかそうとする社会の姑息さに迎合するものと大差なく思われます。

 過去6年間、背の高い女性たちとの連帯を模索してきて、私が学んだことは、社会と向き合うには、内向きと外向きという二つの方向性をもつ活動があること、そしてどんなことがあっても、"差別や偏見をなくそうというスタンス"を見失ってはいけないということです。なぜなら、そのスタンスには、人間としてのintegrityとdignityが賭されているからです。手持ちの英和辞典は、integrityとdignityを、高潔、誠実、威厳などと訳していますが、私自身は、日本語には、これらの英語の意味をぴたりと表現する言葉はないのでは、ぐらいに思っています。それは、人間を人間存在たらしめる根源的な価値です。人間なら絶対に失ってはいけない価値であり、その価値の獲得のため戦う、つまり自分が人間らしく生きるために戦うのは、人間としての社会的義務ぐらいに私は考えています。乙武氏が主張する「障害をネタにハハッと笑える社会こそが、真のバリアフリー」(56ページ)といったコンセプトこそ、人間のintegrityとdignityを凝視・追求しない、能天気な日本社会を象徴するものではないでしょうか。


47.Re: 乙武氏への抗議状 3
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:29
背の高い女性たちも、ただ一度の人生を謳歌するために、人それぞれ多種多様な"処世術"を駆使して生きています。たとえば、自分はモデルになれる体型なんだと言い聞かせて、他人からの暴言を聞き流すとか、背の高い女性が好きな男性もたくさんいるという現実を知って安心するとか、その他もろもろ、差別と偏見に満ちた社会の厳しい現実に目をつぶり、自分で自分を必死で受け入れるためにさまざまな個人的戦略を練って、日々を過ごしています。生き抜くためのどんな"処世術"も誰にも批判はできません。
 が、明確に理解されねばならないのは、"処世術"とはあくまでも、当事者が仲間同士でなぐさめあい、力をつけあい、そして社会の現実に立ち向かっていくエネルギーを獲得するための"心のよりどころ"を提供してくれるに過ぎないということです。それが、記事の中で紹介されているような、肌やら薄い髪、脳性マヒといった、"一般的にはマイナスとされる身体的特徴をネタに笑いを取る"(55ページ)当事者お笑いコンビの笑いでしょう。当事者同士が 内向きに"傷をなめあい"、"泣き笑い"を通して互いを励ましあうことは誰にも止められないし、当事者にとって必要なことです。
 
 が、そんな内向きの笑いを、外部の非当事者が当事者同様に分かち合えるものでしょうか。分かちあわねばならないものでしょうか。自嘲をえげつなく、痛々しく感じる当事者も非当事者もいるのではないでしょうか。
 私はもう50代も半ばを過ぎた人間です。が、この年齢になっても、若いときに言われた「太平洋にごぼう」だの、今だに言われる「デカイなあ」といった言葉をネタに、自分を笑いものにしようとは絶対に思いません。他人が"ひとごと"に向ける底の浅い笑いは、かれらが無意識に持つ差別や偏見にお墨つきを与えるだけで、背の高い女性たちを取り巻く社会的環境を変えることはできないし、なによりも私にとって一番大事な、私自身のintegrityとdignityを自らの手で傷つけるだけだからです。


48.Re: 乙武氏への抗議状 4
名前:たかこ    日付:2011/9/16(金) 12:30
何年か前に、金太郎の格好をしてイベントに出演することで、ハゲの劣等感を克服したとマスコミにとりあげられた方と何度か連絡をとりあったことがあります。その方はご自分を"勝ち組"と称されましたが、私は、ハゲを自ら吹聴して回り、金太郎の格好をして他人の前に立たねば劣等感を克服した気持になれないのなら、それは"負け組"コンセプトだと申し上げました。劣等感の真の克服は、一時的に高揚した気分にしてくれる、それも金銭やら知名度といった副産物をもたらす可能性のある、他人の目を意識した準タレント的自嘲パフォーマンスではなく、あくまでも個人のempowerment(この言葉も日本語にはない、ぐらいに私は考えています、たった一人ででも人が社会と関わることで、社会と対峙していく力を自ら身につける、といったところでしょうか)による、地道な行動・活動によってのみ可能と私は考えるからです。
 
 乙武氏が、ご自分を「カタワ」と呼ぶのは、乙武氏の自由意志であり、"主流"社会と向き合うための個人的"いちぬけた"戦略です。誰にも批判はできません。しかし、そのスタンスは、他の障害者の方々にも力—社会と向き合うエネルギーを与えるものなのでしょうか。金太郎の格好をして人前に立っても、決してほかのハゲの方々のempowermentにはつながらないのでは、と考えた同じ思いを、今、私は乙武氏の「カタワ」自嘲論に対して感じています。乙武氏が、"主流"社会にのみ目を向け、「真のバリアフリー」といった美名の下、少数派の自嘲を奨励されるのなら、「35年生きてきて、差別や偏見を感じたことが一度もない」恵まれた人の傲慢さではないでしょうか。少数派の、あくまでも人間としてのintegrityとdignityを尊重しようとするなら、自嘲など決して許されてはならないはずです。そして、乙武氏が、日本社会が臭い¥ものにふたをしようとしているように感じられるとしたら、それは乙武氏自身が、“上から目線”を持っているからではないでしょうか。 

41.乙武さん 返信  引用 
名前:しま    日付:2011/9/11(日) 16:28
こんにちは。

週刊新潮の乙武氏の記事は読んでないのですが、氏のツイッターと週刊サイゾーというネット記事に、「かたわ」表現に関連して、背の高い女の人を引き合いに出す文が出てたので興味深く読みました。

彼は自身を「かたわ」と笑い飛ばしているようで、ちょっとそこら辺の考えについては、なんとも言えないのですが、こと背の高い女の人が、背が高い、と言われると傷つく、という事実を認識してますね。彼はきっと過去に背の高い女の人と会話をしたことがあって、そういう事象に気づいたのだと思います。自分自身のことは「かたわ」と笑いとばしても、目の前の相手が背が高いことを気にしてる人だったら、「背が高いですね」なんて言葉は言うべきではなく、そういうことは相手と相対する中で、相手の気持ちを察するべきだ、と言っています。ここのところに関しては、私はとても乙武さんに共感を持ちました。

ツイッターはずいぶん炎上のようで、「かたわ」というのは自分に対してだけであって、決して誰にも言って言いわけではないのは自明でしょう、と言ってますが。。

漫才コンビのしずちゃんが、「はーい、でかいしずちゃんでーす」と言いながら出てきたことは見たことがないですからね。あるいは、しずちゃんは、あの身体を、これがしずちゃんなんだ、と認識させ、でかいなどとは言わせない雰囲気を作った、のかもしれない。

ツイッターのまとめ記事
http://togetter.com/li/152112

ネットでの「週刊サイゾー」の記事です
http://www.cyzo.com/2011/07/post_8032.html



ただ、私たちが一番いやな思いをするのは、何の関係もない、初対面の人に、それこそすれ違いざまに「でけー」とか「わー 身長何センチ?」とか言われることなので、乙武さんの言う、相手との関係性で相手を表現する言葉には、気をつけるべきだ、というのは、「間に合わない」という感じなのですよね。(長年のつきあいのある人でも鈍感な輩はいますけど) でも、これは障害者にもあてはまり、やはり、すれ違いざま「びっこ」とか言う子供はいますよね。そしてそれが子供だけに傷ついてしまう・・ 

乙武さんも小学校の先生を3年間してましたが、小学生は、手を袖の中に突っ込んで、「乙武ごっこ」をしていたといいます。彼はそれを笑い飛ばしてます。ここには、小学生と乙武氏の間で、OKという関係性ができあがっていた、ということなのでしょう。ただ氏もすれ違いざま、気持ち悪い、と言われることはあり、なぜかお年寄りは彼の体を見ると手を合わせ、拝む人が少なからずいるそうです。それを氏は「見たことがなく」「慣れてないから」だと言っています。

「慣れてない」確かにそうであると思うのですが、自分とは違うので異質なものである→ある意味、freak(異質なもの) 「わー でけえ」という言葉の端にこの、見たことのない異質なもの、に対する表現の感情を私たちが感じ取るから(尊敬の念ではなく異質なものへの驚きと、排除さえもたまに感じたりするので)いやな思いをするのかな、と思いました。



42.Re: 乙武さん
名前:たかこ    日付:2011/9/13(火) 3:10
しまさん

情報ありがとうございます。
教えていただいたサイト、見ました。ツィッターというのを初めて見ました(笑)なにやら忙しそうなものですね。。。(笑)

週刊新潮の記事の内容は、教えていただいたものを集約してるみたいです。どこも大体同じことを言ってる感じ。。。
改めて読んで、確かに私が週刊新潮の編集部に書いたものは、バックグラウンドを知らなかったーたとえば、脳性マヒのお笑いコンビはテレビに出て、認知度が高まってるのですか???−ゆえに、ちょっと言葉足らずの部分はあったかも、ですが、やっぱり私の主張は、それほど的はずれではない、という気持ちに改めてなりました。

乙武さんの言ってることは正論に聞こえますが、完全に欠落してるものがあります。それは、自身のツィッターの中でも書かれてますが、自分をカタワと呼ぶことに、

「傷つく人がいるから、やめたほうがよいのでは」との声はあっても、「傷つくからやめてくれ」という当事者の声は、いまのところゼロ。「よくぞ代弁してくれた」という障害者、もしくは家族の声が、いくつか。

これから考えるに、乙武氏の発言に反応するのは健常者が99パーセントということでしょうか。つまり、社会の主流を相手にしているわけで、そこが問題なのでは、と私は自分の原稿に書きました。
自分を「カタワ」と呼ぶ自嘲する姿に、「傷つくからやめてくれ」という当事者の声はいまのところゼロ、では話にならんと私なんかは思います。要するに、乙武氏は、障害者のマジョリティからは見放されているということ???つまり、あいつは違うんだ、みたいな。それが問題なんだと乙武氏は理解していないのではないか。。それは、恵まれている人間の傲慢だ、と私は、自分の原稿に書きました。

私自身は、原稿の中で、私はこの年になっても、「太平洋にごぼう」だの「でかいなあ」という言葉を使って、自嘲しようとは絶対に思わない、それは私自身のintegrity とdignityを自分の手で傷つけることだから、と。今回、記事を改めて読んで、この気持ちをますます強くしました。

やっぱり水野さんと同じように、自分がテレビに出ている、知られている人間であるということのメリットというか価値のようなものもあると思うんですけど、また他の芸能人の方たちと僕が違うのは、僕が普通にしているだけで力を感じ取ってくださる方がいっぱいいるんですね。

こういうのを、私は彼のエゴか欲と思いますね。乙武氏がテレビに出ることでエネルギーを持っているのなら、それは、同じ障害者たちのエネルギーを高めるために使われるべき、と考えるけれど、その部分はかれのコンセプトからは完全に欠落している。。。
脳性マヒのお笑いコンビがテレビに出るようになっているのなら、単純に喜ぶべきことと私は思いませんね。
テレビに出て、お金をもらうようになったら、もう終わりなんですよ。そのあたり、乙武氏には認識がない。。。それも書きました。。

とにもかくにも、今月末まで待って、編集部から何の連絡もなかったら、私の原稿をここに載せますね。たぶん、そうなると思います。。(笑)


43.Re: 乙武さん
名前:たかこ    日付:2011/9/13(火) 3:48
あと、乙武さんが、背の高い女性たちに言及している部分ですけど。。。(この件については、私は自分の原稿では一切触れませんでした。。笑)


「背が高い」って、ただの身体的特徴を指す言葉だけど、たとえば背が高いことを気に病んでいる女の子には、使うべきじゃない。でも、だからと言って、誰も「背が高い」という言葉を「差別用語だ」とは言わないよね。言葉とは、そうして相手との関係性によって選び、口にするものだと思うんだ。

「傷つく人がいるから、公の場で使うべきでない」なら、「背が高い」「おぼっちゃま」「色が黒い」だって、公の場で使わないほうがいい。その言葉で傷つく人も、少なからずいる。でも、そんなのバカげているでしょう。目の前の相手の気持ちを考えて、言葉を選ぶでしょう。僕らには、その力がある。

例えば「背が高いですね」という言葉は一般的にほめ言葉のように使われますけど、それを言われて傷つく女の子って絶対いますよね。モデルさんやバレーボール選手なら、言われた方も喜ぶかもしれない。だけど、目の前のこの人は傷つくかもしれない。それって、みんな普通にコミュニケーションしてたら気付くことじゃないですか。そういうコミュニケーションが、対障害者になると、目の前にいる相手がどう感じるかということはスッ飛ばされてしまって、一般的に「カタワはやめよう、障害者の害の字は開こう」となる。そんな風に一概に否定するんじゃなくて、手足のある人、障害のない人と接するときと同じように、その人の前で使っていい言葉かどうか考えながらコミュニケーションをしようよっていうのが、僕が言いたいことなんです。

まず、乙武さんが、私たちの悩みについて言及してくれてることには感謝して。。。でも、私たちの悩みを理解してくれてるとは言いがたい部分もあって、私たちももっとがんばらねばならないのは。。。(笑)

1 私たちは、「背が高い」という形容詞に抗議しているわけではない。

2 背が高いは、きれいな人に使われるのであり、ブスで大きい人には、デカイ、という形容詞になるという内部事情は、乙武氏に知らせるべき。。(笑)

3 「傷つく人がいるから、公の場で使うべきでない」なら、「背が高い」「おぼっちゃま」「色が黒い」だって、公の場で使わないほうがいい。
乙武氏は、ばかげていると言ってますが、私は公の場で使うな、といいたい。つまり、身体的特徴は、いちいち言及するな、です。公の場でも私的な場面でも。。ただ、乙武氏も言ってるように、個人同士には関係性がありますから、そこはかれの言うとおりに、その関係性にまかせるべきかも知れない。でも、ある有名な落語家が、シカゴに来て、ハゲの人のことをあれこれ言ったときは、ほんとに気分が悪くなって、腹が立ちました。公の場でーつまり不特定多数の状況があるときーは、身体的特徴は口にしない、というルールを作ってもいいと思います。そういえば、一国の首相が、アメリカから来たミスなんとかのリトルさんに、ビッグだね、と言ったというニュースにも、総理官邸?に文句を書きました。(笑)とにかく、個人的関係にまかせてもいい部分もあるでしょうけど、身体的特徴は言わない、というルールを作っても、別に社会にマイナスになることはない、と私は考えます。

彼が自分をカタワと呼ぶのは、彼と、彼から提示された公との関係性となりますが、彼自身は、ほかの障害者をカタワと呼べるのか、と私の原稿の中で問いました。というのも、アメリカでは、アフリカ系の人を、非アフリカ系をニガーと呼ぶと、これは差別行為となる危険性がありますが、スパイク・リーの映画のように、アフリカ系同士がニガーと呼んでも、非アフリカ系が差別だと非難はできません。それは、カタワでも同じではないのか。。。当事者と非当事者の力関係を考えるべきだ、と私は書きました。

4 目の前のこの人は傷つくかもしれない。それって、みんな普通にコミュニケーションしてたら気付くことじゃないですか。

とんでもない。。みんな、悩んでいることを隠してきましたよね。このあたりも、乙武さんの認識に甘さがある。。。(笑)彼は、障害者だと絶対に悩んでいるという世間の思いこみに挑戦しようと、自分は、35年間、差別や偏見にあったことはない、とか言ってるのかも知れませんねえ。。。でも、言えるということが、恵まれている証拠です。。私たちだって、悩んでいる、ということが言えるようになったら、それは癒しの道に進んでいるという意味ですから。。。
乙武氏の「カタワ」の自嘲論に、「やめてくれ」という当事者の声がないというのは、やはり当事者の状況はかなり深刻なものがある???

40.お久しぶりです 返信  引用 
名前:じゃんぼ    日付:2011/9/10(土) 23:57
こんにちは。

先日のたかこさんの記述のあった乙武君(別に知り合いではないのに、ついこう書いてしまう)の発言と、今日の「ケア・・・」の件、興味を持ったので、私もネットで調べてみました。アサヒの桜井均さん(元NHKプロデューサー)の書いた全文、私も読みました。「ケアのジャーナリズム」という言葉を初めて耳にしました。概念的には、きっと思っていた人もいると思うけれど、その概念が言葉として登場したことに希望を持ちます。それにしても、フクシマは重たいです。退職し、今までよりも自由になる時間があるのかもしれない私は、(今の自分にできることは?どうかかわっていけばいいか?)との思いはあるんだけど、実際に行動を起こすには至っていません。弟が北海道にいて、今年の夏、福島の子どもたちを10日間ほど受け入れました。放射能の問題で、思い切り外で遊べない子どもたちに、のびのびと過ごして欲しいという願いからです。手伝いに行くことができなかった私は、それに多少のカンパをしたぐらいで・・・。今の原発内部の状況がどうなっているのか、このごろはちっともメディアに登場しません。事態は決して好転してないはずなのに、報道されないと、何となく収束に向かっているかのような錯覚を与えてしまいます。ただこの前、避難区域にある草の伸びた小学校の校庭を、牛が駆けている写真を見たとき、ちょっと言葉が出ませんでした。原発のその後については、海外メディアの報道を見ると全く違う視点を知ることができます。(私が見たのは、ドイツZDFのフロンタール21という報道番組8月26日放送のものをユーチューブにアップしてあって・日本語字幕付き・それをブログ上に載せてあったモノ。あと、同様にオーストラリアの報道番組)
いたずらにショーアップして、おもしろおかしくニュースや政治を語る、というか言いたい放題に、うけるような発言をする?形式の番組が多く、ほとんどTVを見ない私ですが、うちの義父母なんぞはそういうモノを日がな一日見ている・・・「TVで言っていた」=正しいことという感覚があり、本当にその影響力の強さを思います。だいたい広告料を貰っているからスポンサーに不利になるようなこと言うはずがないと、こっちは疑ってかかるんだけど、多くの人たちはそんなことつゆほども思わないようで・・・。そうそう、多佳子さんの「美しすぎるプロレスラー」に続いて、昨日だったか「かわいすぎるサッカー選手」っていうのを耳にしましたよ。またかって感じです。もっと大事なことを伝えてヨーって、思います。スポーツ選手の取り上げ方も(わたしたちが子どもの頃に比べて現代の方がかなり)、絶対に容姿と関係があるなあって、思いませんか?
おっと、何を書いていたんだか、話があちこちして、わからなくなってきました。ごめんなさい。今日は、つぶやきだと思って許して下さい。

乙武氏の発言については、ツイッターに出ているのを見ましたが、それを賞賛する意見ばかりで、そうでない意見があるとすぐたたかれてしまうような雰囲気でした。ここで、数日前の元首相へのインタビュー記事を思い出しました。安全神話と今回原発の事故を防げなかったのは何故かという質問に答えて「一言で言えば同調圧力だ。例えば、原子力村で危険性を言うと、あいつは変わり者だと外されてしまう。役所も同じで、外されるのを恐れて皆は安全神話に同調して行った。」
「同調圧力」・・・日本社会を象徴するような言葉かも知れません。

自分で物事をみていけるように、勉強していきたいと思います。そして、自分の意見や気持ちを伝えていけるように、私の今の生活エリアの中で、まず、やれることをやっていきます。

でもでも、実は家族のことで、まだまだ精神的に落ち着かない私です。でも、少しでいいから、自分の時間を忘れないようにしていきますね。

以上、近況報告を兼ねて。



44.Re: お久しぶりです
名前:たかこ    日付:2011/9/13(火) 4:15
じゃんぼさん

こんにちわ。
メディアと同調圧力ー大問題です。

あと、再び乙武氏のツィッターから

私の学会の文書に「障がい者」とあって「なぜ?」という私の問いに、「一般的に『今は』こう書くようになっています」と答えた理事の(こう書けば「文句を言われません」)という表情に安堵の責任逃れを感じた。
そうした責任逃れ防衛的言葉遣いは驚くほど進んでいる。

この責任逃れ防衛的言葉遣いですね、私が大問題と思うのは。。
「させていただきます」の言葉遣い。保身丸出しです。言う人間は絶対に信じない。。。母の最初のケアーマネージャーみたいな奴。。しゃべる文章で使われる動詞にすべて、「させていただきます」をつけて、一体何を言ってるのか、何をしてくれるのか、さっぱりわからなかった奴。。結局、母のために何もしてくれませんでした。(怒悲)保身を丸出しにする人間ー自分の意思を言えない人間、言うことで責任をとらされたくないと思っている人間。。全部ダメです。。(怒)
私は、〜〜〜します、とはっきり言える人間じゃないと。。。

じゃんぼさん、新しい生活、がんばってください!!!別に、乙武さんの投球姿を見なくても、がんばれますよね。。(笑)だいたい、被災者を元気づけるのだ、という美辞麗句の下に、乙武氏に投球させるというコンセプトも、マスコミのバカさ加減なのでは。。。乙武氏も違和感を感じたようですが、たぶん、断ったら、今度は被災者から非難されるのを心配した??? でも、被災者も、乙武さんを見たら元気になる、みたいに、いつまでも弱者扱いされるのが苦痛なのでは??? マスコミの有名人なんて来なくていいよ、テレビに出る、という力があるのなら、その力で、政治家を動かしてくれ、と言いたい被災者もいるのでは。。。

そうそう、震災といえば、私は、世界中から集まった3000億円を超える?義捐金の使い道が知りたいです。いつだったか、まだ配られてない、とかどこかで読みました。3000億円を寝かせていたら、被災者のいくつかの家族を救えるだけのかなりの利子がつくのでは??? 
ああ、どうなってることやら。。。いろいろむずかしいんでしょうねえ。。

  

39.「ケア」のジャーナリズム 返信  引用 
名前:たかこ    日付:2011/9/9(金) 23:18
アサヒドットコムのニュースで、「ケア」のジャーナリズムというコンセプトを知りました。ttp://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201109060372.html
林香里という人が岩波書店から「(おんな・コドモ)のジャーナリズム」という本を出されているそうで。。記事からの引用ですが。。

**(現在の主流ジャーナリズムは)客観主義、公平性という表現基準に固執するあまり、「事実」の背後に隠された、事実を生み出す構造=事実の権力性の根源を問うことに失敗している。「ケアのジャーナリズム」は、個人のケア(世話・おっせかい)にとどまらず、社会的弱者を取り残さずに手を差し伸べる。それは、主流メディアが、グローバル化・複雑化・細分化した社会にベストアンサーを一斉送信できると過信していることへのオルタナティブとして立ち現れてくる。。。ジャーナリズムは、客観から「ケア」へ。。。「安全神話」の形成に、当のメディアが手を貸してこなかったのかと問われかねない場面である。これを、放送の「客観性」「不偏不党」のためだと抗弁すれば、「マスメディアが自ら社会を整序して、現状の社会のあり方を追認し再生産してきた」と言われてもしかたあるまい。。。他人事ではないというのが「ケアのジャーナリズム」の第一歩である。。。「ケアのジャーナリズム」は、ジャーナリスト自身が取材相手によって「ケア」されることも大事な要件としている。。。

いよいよメディア自体が批判され、変化が要求されているようで。。これはすばらしいことだと思います。

「事実」の背後に隠された、事実を生み出す構造=事実の権力性の根源を問うことに失敗している、の部分、感動しました。(笑)私たちの問題も、メディアが大きく加担してきたと思いますから。「現状の社会のあり方を追認し再生産してきた」というのは、まさしくその通りだと思います。

きのうだったか、美しすぎるプロレスラー、みたいな表現をニュースで見ました。まだこのレベルでやってるのか、と苛立ちました。こういう表現こそ、メディアからなくすべきと、メディア関係者は自覚するべきです。
他人ごとではない、という視点からのメディアが発達していけば、私たちの問題も、もっとまっすぐ取り上げられるようになるかも。。

「ケアのジャーナリズム」は、ジャーナリスト自身が取材相手によって「ケア」されることも大事な要件としている。。。の部分は、自分のk個人的「いちぬけた」戦略の吹聴に忙しい?乙武氏が理解するべき点ですね。。(笑)


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