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声の広場

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520.「丸岡藩騒動記  作蔵の仇討  第二話」 脱稿 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/12/21(日) 0:5
「丸岡藩騒動記 作蔵の仇討 第二話」脱稿しました。近日中にトンボ作品リストに掲載します。

 尚、筋書きを若干修正しました。そのため第一話も変更しております。二話を書き上げてもストリーが進展せず、予定より長編になりそうで頭を痛めております。再開は来年2月より、焦らずに取り組みます。

 1月は「金津の黎明」を書き上げます。これもトンボ作品リストに掲載します。

519.続きを読みたい 返信  引用 
名前:西南納人    日付:2014/12/13(土) 10:13
「丸岡藩騒動記〜」面白いです。続きが楽しみです。
 途中休むことなくお願いします。

518.「丸岡藩騒動記  作蔵の仇討」 連載開始 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/12/9(火) 9:41
「丸岡藩騒動記 作蔵の仇討」の連載を開始します。トンボ作品リストに掲載。

尚 この小説は本多丸岡藩が改易に至った史実を題材にしておりますが、あくまで私が創作したストーリーであることを最初にお断りしておきます。

517.新ソバ会 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/12/7(日) 8:43
 毎年12月の第一土曜日(もしくは第二土曜日)に中川の松龍寺で新ソバ会が開かれる。地元産のソバ粉(剱岳ソバ)を目の前で打ち、切り、茹でて提供されるのだが、いつみても鮮やかな手さばきだ。

 あいにくの大雪。だが赤穂浪士の討ち入りではないが雪にソバはよく似合う。主催者の黒川氏も「今日は冷え込んでソバがいっそう美味しいですよ」と言う。たしかに美味い。寒いから温かいソバと思うのだが、逆に冷たいおろしソバの方が美味い。

 辛みの利いた大根おろし汁にソバが絡み、そこに葱と花カツオ。実にシンプルである。シンプルだからごまかしがきかない。だから良い。熱燗でも冷酒でも、ビールでもあれば申し分ないのだが車ではそうもいかない。

 持ち帰り用のソバを頂く。帰宅してビールでソバを、さらに熱燗でソバを食す。きわめてシンプルな食し方。simple is beste である。

 ソバに限らず、食し方はシンプルな方が良い。先日は大根とユズを頂いた。昆布出汁で大根をじっくり煮てユズ味噌で食す。おでんも悪くないが大根のみを食す「ふろふきだいこん」は格別の味だ。

 ストーブに鍋をのせている。鍋のなかはこれも頂いた大豆。水煮している。一晩おいて煮豆をつくる。これもシンプルな料理である。

 料理はシンプルがよい。生き方もシンプルに、つまりは愚直を貫く・・・・これが実に難しい。

516.http://ameblo.jp/tosh-tanaka/ 返信  引用 
名前:まきさんの一ファン    日付:2014/11/29(土) 10:30
文学小説家を目指しているブロガーの紹介
http://ameblo.jp/tosh-tanaka/

515.文学小説家 返信  引用 
名前:まきさんの一ファン    日付:2014/11/29(土) 10:29
 文学小説家を目指しているブロガーの紹介です。
 牧さんのご感想ご意見をブログで公開して下さい。

 とんぼさんの歴史紹介はあまりにも読者としての興味とかけ離れています。
 結城秀康が福井と多大な関係をしていた事を地域の紹介と共に地元との大きな
関係を紹介して欲しいと思います。
 福井が天下と密接に関連したという歴史。
 福井が天下を左右する大きな要因等読者が地元との大きな関連に興味を持つ様な要因を
紹介して欲しいですね!

514.戦国非情 (結城氏・多賀谷氏伝) 第三部完成 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/11/14(金) 13:54
「戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝 第三部 越前松平氏の系譜」を書き終えました。

 第一部は結城氏と多賀谷氏のルーツ、両家の確執、多賀谷左近が結城秀康の家臣となった経緯などを記しました。

 第二部は結城秀康の越前入国、秀康の死、北ノ庄藩騒動、忠直処分、多賀谷氏改易の経緯を記しました。

 第三部は秀康没後の北ノ庄藩(福居藩、福井藩。68万石から50万石、さらに25万石、最終的に32万石)に至った経緯、歴代藩主(最後の藩主・18代松平茂昭・・しげもち)までの出自、経歴。忠直と嫡男光長(みつなが)、忠直の庶子・長頼(ながより)、長良(ながよし)の運命。
 
後半では秀康の庶子である直政、直基、直良が立藩し、其々が直政系越前松平氏、直基系越前松平氏、直良系越前松平氏を立ち上げ、支藩を含めて7藩が明治維新まで存在していたことを記しております。

 結城秀康、松平忠直については県内でもよく語られておりますが、その後の歴代藩主は松平慶永(春嶽)を除いて県内の人でもご存じないでしょう。

 忠直嫡男光長、秀康庶子(忠直の異母弟)である直政、直基、直良の追跡調査も県内で十分されているとはいえません。その意味で、貴重な資料になると思います。興味のある方、お読みください。

 尚、ソフトの違いでしょうか、文字の配列が乱れておりますが、修正します。牧田さんお手数ですがお願いします。 

 結城秀康末裔の数奇な運命、ぜひご一読を。

513.出稼ぎ事情今昔。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/11/5(水) 21:49
 女工哀史「野麦峠」を御存じだろうか。明治、大正、昭和初期、日本が近代化に向けて全力で駆け上がっていた時代、外貨を稼ぐ主産業は生糸産業で、なかでも岡谷、諏訪地方は一大産地であった。「あゝ野麦峠」(山本茂美著)では飛騨地方の幼い乙女たち(12〜13歳)が女工として働くために冬の野麦峠(標高1672メートル)を超えて信州に行く姿が描かれている。彼女たちの多くは貧農の娘たちで借金に苦しむ親元に送金を続けながら一日13〜14時間の過酷な労働に耐えていた。逃げ出そうにも寄宿舎には監視人がいて、窓には「鉄のさん」がはめられている。劣悪な環境のなかで病死する娘も珍しくはなかった。

 これほど極端でなくても江戸時代から昭和30年代前半まで、子供の出稼ぎ、親への送金は珍しくなかった。半世紀前まで日本はそれほど貧しかったのである。だが貧しいゆえに家族の絆は強かった。昔の話である。

 長野で食堂を経営する知人夫婦がいる。女将さんの話に今昔の感を深めた。

 店にフィリッピン、中国からの出稼ぎの娘さんが食事に来る。彼女たちは介護施設で働き母国の家族に送金している。介護の仕事は決して楽ではない。それでも彼女たちは笑顔を絶やさない。明るく素直な娘さんたちに施設の老人たちは心を開いて話しかけてくる。その彼女たちが言う。

「日本は不思議な国ですね。おじいちゃん、おばあちゃんが私たちに話すのです。『子供たちが一度も訪ねてこない、手紙電話すらない』 考えられません。親孝行するとかしないか以前の話です。世界から羨ましがられる日本でお年寄りが大切にされない、不思議な国です」

 夫妻は20代の娘さんを癌で失くされている。異国の娘さんと少旅行を楽しんでいると話された。先日は亡くなられた娘さんの着物を着せて善光寺詣りに行ったそうだ。彼女たちは大喜びだったと、その様子を女将さんは楽しそうに語られた。

 最後に彼女いわく「私に息子がいたら嫁さんにするわ」

512.久々の爽快 返信  引用 
名前:まきさんの一ファン    日付:2014/11/3(月) 9:8
 久々のまきさんのブログ日記に再会出来て懐かしく愛おしい!
 しかもきのこ食旅行の内容に憧れる!
 やはりまきさんにはブログ日記が一番相応しいと思うし
 一生生の灯火にして欲しい!
 パソコンが故障した位でブログ休止なんて情けない仕草は似合わない!
 沢山の友がパソコン位貸与しないのか?
 パソコン位安価なものを数台準備して置いて欲しい!
 今後もブログを一生の友として期待する!!!

511.(untitled) 返信  引用 
名前:管理人 X    日付:2014/10/17(金) 14:20
 牧田さんのパソコンが故障して現在修理に出しております。というわけで「妄想日記」の書き込みが水曜日以降途絶えております。読者のみなさん今しばらくお待ちください。

510.実りの秋 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/9/29(月) 11:3
 Y氏から新米こしひかりを分けてもらった。玄米を精米し、炊き上げて、じっくりと味わった。新米特有の光沢、香り、副菜は質素でよい。冷ややっこにせいぜい薄塩の鮭か、一夜干しのカレイ。あとは香の物。肉も刺身も新米には不要、かえって新米の美味しさを消す。

 卵かけご飯でよい。ゴマ塩だけでも梅干しだけでも良い。お薦めは炊きたてのご飯にバターを乗せ、醤油をたらし、焼海苔で巻いて食す。上寿司などよりはるかに美味い。

 お前の味覚がおかしいと言われるかも知れないが、私は料理人。ズブの素人から叩き上げの料理人。それを可能にしたのは人並みすぐれた味覚。舌には自信がある。ゴマ塩のお握りや梅干しのお握りが上寿司より美味いという私の味覚が正常なのだ。

 おおよそ味覚というものは刷り込みによって変えられる。ファミリーレストラン、ドーナツ、ハンバーガー、フライドチキンのショップでは宣伝の巧みさで、食するということさえファッション化させている。味覚を狂わせ、健康に害を与える食品さえ提供している。とんでもない話である。

 暴言を吐くことを許されるなら、今流行りのグルメ番組なんぞも糞食らえだ。食通を自称する輩も糞食らえだ。

 五穀豊饒に感謝し、自然の恵みに感謝し、生産者の苦労に感謝し、食することが本物の食通だ。さらに料理人として付け加えるなら、米こそ最高の食材なのだ。

 それが今の人たちには分からない。ぜひ新米の美味しさを味わっていただきたい。

 Y氏からいただいた新栗で明日は栗ご飯としよう。松茸ご飯は無理かもしれないが、炊き込みご飯なら楽しめよう。しかしなんていっても銀シャリは格段に美味い。新米なればこそだ。

 早朝散歩すると刈り入れを終えたばかりの稲田から芳ばしい香が漂う。烏(カラス)が落ち穂だろうか啄ばんでいる。ときおり鷺が掘り起こされた乾田に舞い降りてくる。大豆畑は茶褐色になり、収穫時期が迫っていることを知らせている。蕎麦畑の清楚な白い花が美しい。自然災害に逢わず、実りの秋を迎えたという安堵感に、農業人ならずとも浸ることができる。

 豊饒の秋の風景は人の心を豊かにさせる。
 
 

509.戦国非情 結城氏 多賀谷氏 伝 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/9/21(日) 17:14
「戦国非情 結城氏 多賀谷氏 伝」 第一部、第二部を書き終えました。。第三部「戦国非情 越前松平氏(結城秀康の末裔)の系譜」の前編を書き終え「トンボ作品リスト」に掲載したところです。

 推敲は重ねたつもりですが、掲載後あらためて読み直したところ、2〜3個所誤字、ルビー(フリガナ)の誤りが見つかり、近日中に訂正したものと入れ替えます。

 柿原郷 多賀谷一族に関する資料は乏しく、わずかに「福井県史」のなかで触れられています。柿原郷多賀谷氏の菩提寺、専教寺の寺史で多賀谷一族について触れられておりますが、多分伝聞に基づいた記述でしょう、錯誤もあり、何よりも多賀谷氏断絶の理由について触れられていません。

 その他に細呂木村史でも、記載されております。やはり同じです。
多賀谷氏系譜(家伝)は福井県史と細呂木村史から引用しておりますので参考にはなりません。資料そのものも検証すると矛盾点が多々見受けられます。

 歴史探究はパズルゲームに似通っています。膨大な数のパーツを組み合わせて作品を完成させます。一枚でもパーツが欠ければ作品は完成しませんが、そのパーツの形状を推測することは可能です。

 今回の柿原郷多賀谷一族断絶を探るにあたって同じ手法を用いました。当時の多くの史実を組み合わせることにより、空白部分のパーツ(多賀谷一族断絶の理由)を浮かび上がらせるのです。


 結論を導き出したのですが、これが唯一の結論というつもりはありません。異論、反論大歓迎です。議論の叩き台になれば良いのです。私は誰も手掛けなかった柿原郷多賀谷一族の盛衰に取り組めただけで満足しています。

 それはともかくとして柿原郷多賀谷左近三経の墓所はあわら市の歴史遺産となる可能性がります。

 多賀谷一族発祥の地、下妻市を始めとして大阪市、川越市など多賀谷一族の子孫は全国に散在しております。あわら市で多賀谷左近三経及び一族を顕彰すれば、全国に発信することも可能です。それらの自治体では時代祭り(下妻市)、顕彰会が盛んに行われています。姉妹都市締結も実現するでしょう。

 それを目指すなら多賀谷一族の歴史を知り、少なくても柿原郷多賀谷一族の盛衰について説明できなければなりません。その意味で参考になればと思います。

 尚、第三部「戦国非情 越前松平氏(結城秀康)の系譜」後編については資料収集に時間を要するため11月上旬に書きあげる予定です。

 10月中は他の作品に取り組みます。とりあえず、トンボ作品集で「小夏物語」を連載します。

508.昨年より、上手になりましたね 返信  引用 
名前:音楽会行きました中年おばん    日付:2014/8/31(日) 9:24
 牧田さん運営の協力、お疲れ様でした。オーケストラの演奏昨年より上手になりましたね。来年はもっと上手になるのでしょうね、期待していますから続けてくださいね。プロの演奏さすがでしたね、ピアノ演奏も唸りました。

506.豊後よさら節  1 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/8/27(水) 19:2
 菊池寛は『忠直卿行状記』を大正7年(1918年)、中央公論9月号で発表した。それから44年後の昭和38年(1963年)2月、当時の大分市市長の上田保氏は町興し事業の一環として郷土民謡制作を企画した。

 制作グループを立ち上げ、大分市の史実や事跡に照らし合わせて完成したのが「豊後よさら節」である。題材となったのは越前宰相松平忠直卿である。

 元和9年(1623年)5月、松平忠直公は乱行を理由に、豊後府内藩、萩原(大分市萩原)に配流された。彼には5000石の食い扶持を支給されたが府内藩と幕府目付の監視下で軟禁生活を余儀なくされていた。彼の周りには士分はおらず、世話する小者と越前より連れてきた侍女のみであった。

 憤怒と憂愁の日々、28歳の青年の心を慰めたのは、お蘭とお糸の侍女であった。「豊後よさら節」の歌詞は、愛するお蘭とお糸の逢瀬に安らぎを得ようとする忠直公の姿を、詩情豊かに歌いあげたものである。

 忠直公は萩原での3年の謹慎生活の間に、最愛のお蘭と娘おくせを失った。傷心の彼は津守に移り、慶安3年(1650年)9月、享年56歳で他界した。「忠直卿行状記」は、悟りの境地に到達した忠直卿の平穏な晩年の生活ぶりを描いて物語を結んでいる。

「豊後よさら節」は豊後大分で広く愛唱されている民謡である。民謡を通して豊後の人々は松平忠直公のことを知っているが、福井県民は忠直公について知っている人は少ない。まして越前から遠く離れた豊後大分で忠直公の民謡が唄われていることを知る人は皆無に近い。

「豊後よさら節」NO2で歌詞を紹介しよう。
 

507.豊後よさら節  2 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/8/27(水) 18:58
                   豊後よさら節

 お蘭さま いかにかねつけ しゃんしゃらめけど 夜さら寒いもんじゃ 雨じゃもの コレモサンヤノ ヨイトコセ


 おとのさま ふりくる雨に しょんしょぼぬれて 夜さらしのびの やみじゃもの コレモサンヤノ ヨイトコセ


 お糸さま 夜ごとこがれて ねむらず待てば 夜さら長いもんじゃ 秋じゃもの コレモサンヤノ ヨイトコセ


 おとのさま みの着て通え 笠着て通え 夜さらはなれぬ仲じゃもの コレモサンヤノ ヨイトコセ


注) コレモサンヤノ ヨイトコセ・・・はやしことば。その語源は

 忠直公と同時代、備前府内に山弥(さんや)長者と呼ばれた豪商守田山弥がいた。彼は井原西鶴の「日本永代蔵(にほんえいたいぐら)」で語られる程の大富豪であったが、府内城主、日根野吉明によって処刑されてしまった。その理由についての資料は無い。伝説によれば、このとき山弥の四従兄弟(よいとこ)まで断罪に処せられたといわれ、豊後地方では力仕事をするときの掛声「コレモサンヤノ ヨイトコセ」は、これには困ったものだという意味に使われるようになった。

 豊後よさら節 (訳)

 お蘭さま いかにお歯黒つけなさって おしゃれなさっても 夜がふけるし、寒いし、雨が降りなさって これにや困ったもんやの。

 おとのさま 降りしきる雨に しょんしょぼ濡れて 夜さりの忍び じゃが暗闇じゃ これにゃ困ったもんやの。

 お糸さま 夜ごと焦がれて 眠らず待てば 夜さりは長いし 秋じゃしょうがない これにゃ困ったもんやの

 おとのさま 蓑きて通え、笠かぶって通え 夜が更けては逢えぬ仲じゃもの これにゃ困ったもんやの 

※ 「よさら」は豊後地方の方言で、夜が更けてという意味。 

 
  

505.結城秀康の遺言。 多賀谷一族 越前柿原郷を去る。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/7/24(木) 22:22
 結城秀康は68万石の大大名として越前に移封された際、徳川一門の大名跡である松平姓を名乗りたかったと言われている。しかし、秀康が松平を名乗ることにより関東の名門結城家は絶える。

 養父・結城晴朝(はるとも)は結城氏の家名を残すために、宇都宮氏から迎えた養子・朝勝(ともかつ。宇都宮21代当主広綱の次男)を離縁してまで、秀吉の養子であり、家康の次男である秀康を養子に迎えたのである。養父・晴朝の心情を思うと、結城姓を捨てることはできなかった。

 だが、嫡男・忠直には松平姓を名乗らせ、徳川将軍に準ずる家格を守らせた。

 結城秀康は慶長12年4月8日(1607年6月2日)死去している(享年34歳)。その際、秀康は4男の直基(なおもと)に結城氏を相続するように遺言した。忠直は越前北の庄藩を相続し、松平姓を名乗らせ、直基は結城姓を名乗らせたのである。

 元和9年(1623年)、秀忠の勘気を蒙り忠直が配流処分となり、勝山、大野が北の庄藩から分離された。その際、直基は勝山藩主(3万石)として独立した。その後大野藩(5万石)、山形藩(15万石)に移封されている。さらに姫路藩へと続くのだが、その赴任途中病死した(1648年。享年45歳)。

 その直基と多賀谷氏が深い関わりを持つようになる。

 多賀谷左近三経は慶長12年7月21日(1607年9月12日)死去(享年30歳)。多賀谷氏当主は嫡男・左近泰経(やすつね)が継いだが元和2年(1616年)死去(享年不明)。泰経嫡男・虎千代への家督相続は認められず、柿原郷多賀谷氏は絶えた。柿原地区の一画に多賀谷左近三経の墓と五輪塔がひっそりと佇んでいる。以降、多賀谷氏の領地であった坂北郡は福井藩金津奉行の支配下に置かれた。

 だが、多賀谷左近の子孫は存続していた。虎千代、後の経政(つねまさ)は松平直基の家臣団に加わっていたのである。

 秀康が結城家存続を決心した時、重臣の多くは徳川家臣団で固められおり、相談するのは結城氏と縁の深い多賀谷一族の左近三経しかいなかった。結城氏存続の思いを三経に打ち明けたであろう。秀康の願いは三経から泰経、家臣たち、そして経政に語られた。

 秀康没後、徳川家臣団の発言力は益々強くなり、下総結城時代からの譜代家臣は影が薄くなった。左近三経の死はいっそうその傾向に拍車をかけた。柿原郷の領主としての存続が危うくなった時、多賀谷一族には越前北の庄藩家臣としてではなく、結城氏家臣として生きる選択肢が残されていたのである。

 松平直基が勝山藩に移封したとき、多賀谷一族は幼い経政とともに柿原郷を引き払い、勝山に移り、後に大野、山形、姫路と直基に従って各地を転々とした。やがて成人した経政は直基を補佐し、その後も家老職を輩出する家系となった。

 直基の死去後は、嫡男・直矩(なおのり)に仕えた。直基系越前松平家は明治維新まで11代を数え、その間、勝山藩、大野藩、山形藩、姫路藩、越後村上藩、豊後日田藩、出羽山形藩、陸奥白河藩、陸奥白河新田藩、姫路藩、上野前橋藩、武蔵川越藩、上野前橋藩と目まぐるしく移封を繰りかえしていた(最後は上野前橋藩主・松平直克)。多賀谷一族も下妻以来の譜代重臣として元和9年(1623年)から明治4年(1872年)までの250年間、歴代藩主に仕えている。多賀谷の家名は明治維新時(1868年)の前橋藩の家臣団のなかに記されている。

※ 結城秀康の思いは結局実現しなかった。結城晴朝が慶長19年(1614年)死去すると、直基は結城氏を捨て松平氏に戻した。理由は松平氏と結城氏とでは処遇に雲泥の差があるためで、事実、直基以下の歴代当主は親藩大名として処遇された。

 それでも晴朝、秀康の思いは受け継がれ、下総結城氏の祭祀は直基系松平氏の歴代当主によって執り行われ、現在も下総結城一族は前橋神社(群馬県)に祀られている。

 越前柿原の郷から多賀谷氏が消えた理由と、その後の消息である。

※ 福井藩は3代忠昌以降の名称。秀康、忠直の時代は北の庄藩。
 

504.環境保護意識の欠如 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/7/2(水) 12:55
 昨日三国町サンセットビーチと浜地海岸で海開きがおこなわれた。式典には坂本憲男市長、三国観光協会会長を始め関係者が多数参列し、その模様がTVで放映され、新聞にも記載された。

 海に向かって坂本市長が西瓜を投げ、他の関係者は花束を投げている。恒例であろうが、誰も違和感を感じないのだろうか。西瓜や花束は式典の後、回収されたと信じたいが、それにしても彼等の環境保護意識の欠如には唖然とする。浜地から波松への海岸線を歩いてみるがよい。燦々たるありさまである。漂流物が砂浜に散らかり目を覆うばかりである。その光景は加賀まで続く。否日本各地の海岸線で見られる。

 河川から流入した雑木、家庭からのゴミもある。対岸の大陸から漂着した投棄物もある。あるいは船上から投げ捨てられ不法廃棄物ある。

 海は無限の浄化装置だと思っているのだろうか。浜辺も、海も確実に環境汚染が進行している。ただ人々は目を背けているだけの話である。

 僅かばかりの海水浴場近辺を清掃しても、何の贖罪にもなりはしない。海を汚さないという意識が必要だ。

 行政のトップが、環境保護に人一倍取り組まなければならない立場の人たちが無神経に物を海に投げ入れる行為に思わず「正気か」と声をかけたくなる。海への、自然への敬意は微塵も感じられない。自然保護意識が高まっている今日、時代に逆行するセレモニーと言わざるを得ない。

 それを何の違和感もなく放映するNHK、民放各社、なんの疑問もなく紙面に掲載する新聞各社。彼等の環境保護意識も極めて低い。

  理由は何であれ海に物を捨てる行為は慎むべきだ。海開きに相応しい儀式があるとしたら海、海に宿る神々に敬意を表し、安全を祈願すること、そのために海を穢さないことを誓う儀式だ。そのことは、とりもなおさず人々に海を美しく保つことを訴えるキャンペンに他ならない。

 

 

503.沙羅双樹・・・夏椿 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/6/30(月) 16:25
 祇園精舎の鐘の音 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色
 盛者必衰の理をあらわす  奢れる人も久しからず
 ただ春の夢のごとし    たけき者も遂には滅びぬ
 ひとえに風の前の塵がごとし

 琵琶の音が響き、朗々と哀愁を帯びた語り口。平家物語はこの一文から始まる。

 厳密にいうとインドの沙羅双樹と日本の沙羅双樹は品種が違う。熱帯地方の沙羅双樹は冬季がある日本の風土では育たない。多くの寺院が沙羅双樹を売り物にしているが、れっきとした和名がある。夏椿。洒落た人なら沙羅椿(さらつばき。しゃらつばき)と言うだろう。

 隣家の庭に夏椿がある。美しい白い花を咲かせている。

「俺は沙羅椿が嫌いだ」と庭師でもある彼は言う。「朝咲いて夕方散る。散った花は汚く、かたづけが大変」と言った。

 一日で散る。朝(あした)に美しきものも、猛きものも、夕べには無残な姿に変わり果てる。古人は盛者必衰の理を夏椿の儚さに見立てて、沙羅双樹を連想したのであろう。

 今が見頃である。朝に可憐な花を愛でるもよし、夕に散った花を見て、名文を思い起こすもよし。

 ただし、沙羅双樹ではなく、夏椿である。夏椿の儚さが日本人の感性に受け入れられたのである。

※ 夕方咲いて明方に散る夏椿もあるそうです。

 

502.烏  続編 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/6/14(土) 8:19
 散歩、往路で烏が鳴く。昨日の烏ではない。昨日の烏は艶やかな羽毛であったが、今日はそうではない。昨日は雌、今日は雄、つがいだろう。その烏が盛んに威嚇する。

 復路の烏は昨日の烏。鳴き方が明らかに違う。こちらは挨拶。
今は烏の繁殖期。巣の近くを通ると彼等は攻撃的になる。雄は攻撃的、雌は私を安全な存在と認識しているのであろう。

 彼女の鳴き声が心地よく聞こえる。今まで烏に興味をもたなかったが、親しみを感じるようになった。烏を嫌うのは人間の勝手な理屈に過ぎない。生きとして生きるもの、すべて生きる価値がある。

501.烏…カラス 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/6/13(金) 10:5
 二日前のことである。朝6時を少々過ぎた頃、湯の町〜温泉駅の通りを散歩していた。20メートルほど先、ガードレールに烏が停まっている。気にとめず歩いて行く。どんどん近付くが、烏は飛び立とうとしない。無警戒である。すれ違う時、烏を見た。漆黒の美しい烏である。烏も私を見たが、動かない。

 昨日の散歩のときの出来事である。7時前、散歩の帰り、逆方向の歩道を歩いていると、突然背中に羽音がし、風を感じた。烏が私の頭上すれすれ急降下したのである。それが二度繰りかえされた。

 昨日の烏であろう。なぜ彼が(あるいは彼女)私にそのような行動をとったのか、心当たりがない。

 今日、烏はさらに大胆であった。背後から急降下した烏は羽で私の肩を叩いたのである。襲われたという感じではない。遊ばれた、戯れられたという感じなのである。電柱の烏を見上げても、彼は視線を合わせず、あさっての方向を眺めて無関心を装っている。

 さらに歩いていると、路上に米が散らばっている。近くに有料精米ハウスがあるから、運搬のさいこぼれ落ちたのであろう。雀がついばんでいる。気にもせず歩く。雀もまったく無警戒でついばんでいる。真横を通るとき、その様子を眺めようとした。雀は私の視線を感じ、飛び去った。

 バードウオッチングのときに経験するのだが、鳥は人の視線を感じると、その視線から逃れる。鳥に限らず、自然界では自らの存在を消し去ることが大切なのである。

 あるいは人間関係もそうかも知れない。良好な人間関係を築くには「自らを消す」ことが大切なのであろう。しかし言うは易し、行うは極めて難し。凡人には達しえない境地である。

 烏は明日どの様な行動をおこすのだろうか、楽しみである。


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