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542. 快挙・・・敦賀気比 北陸初の優勝 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/4/2(木) 6:57
 快挙、快挙、胸のすくような快挙である。なによりも春夏通じて北陸初という賛辞がたまらない。

 北陸新幹線開業以来、北陸は石川県、金沢と短絡的に捉える人々に、どっこい福井がある、敦賀があると知らしめたことがなによりも痛快である。

 北陸には福井がある、若狭がある、敦賀がある。かっては北陸の中心は越前、若狭であった。大陸の文化は敦賀を経由して日本にもたらされた。

 古代には継体大王を輩出し、中世でも朝倉氏が文化の華を開花させた。幕末で日本を主導した四賢侯は薩摩の島津斉彬(なりあきら)、宇和島の伊達宗城(むねなり)、土佐の山内容堂、そして越前の松平慶永(よしなが)である。越前若狭は幕末に英才を輩出している。福井藩の橋本佐内、由利公正、横井小楠(しょうなん)、小浜藩の梅田雲浜(うんぴん)である。文化では岡倉天心を輩出している。

 かって越前は先鋭であった、開拓者であった。その気概を福井人は忘れてはならない。

 それを声高に押し付けるつもりはないが、春夏通しての北陸初、敦賀気比の優勝は快挙である。心より賛辞を送りたい。

541.「柿原郷の殿様」 多賀谷左近三経公記 について 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/3/28(土) 9:17
 この度 多賀谷左近三経奉賛会より「柿原郷の殿様 多賀谷左近三経公記」が発刊されました。
 この本は多賀谷左近三経公奉賛会、及び関係者の御尽力によって発刊されました。その経緯が末文で奉賛会により語られております。

 昭和23年6月28日福井地震で崩壊した三経公の墓を柿原区の青年団の方々が修復されたのが始まりでした(柿原区、永岡勝二氏談)
昭和48年、墓所が金津町の文化財に指定され、地元の方々の協力を得ながら発掘調査が進められ、調査の過程で墓地から地元古老の証言通り、骨壷が発見されました。

 骨壷のなかにはお骨が収められており、富山医科大学第一解剖教室に鑑定を依頼した結果、成人一人の焼骨であることが確認され、またその中に、棺に使われたと考えられる和釘や、火葬の際の炭の一部が残されている状況から、多賀谷左近三経公のものと判断されました。

 平成4年3月、お骨を再び墓地に戻す法要が菩提寺の専教寺で営まれ、関係者立会のもと、整備を終えた墓地のお墓に無事お骨は納められました。

 この事業には柿原郷多賀谷氏菩提寺である専教寺、奉賛会の皆さん、地元の皆さん、旧金津町(担当職員、吉村幸夫氏)が協力して進められ、とりわけ地元の滝地区に在住されていた郷土史研究家の坂本豊先生が90歳を過ぎた高齢にも関わらず御指導助言に多大な貢献をされました。碑文は先生が書かれております。

 多賀谷氏の末裔は全国におられますが、大阪市在住の多賀谷宏氏(当時大阪市議会議長)が整備事業への協力を申し出て、氏の力添えもあって史跡の植栽、造園工事か完成しました。

 このように多くの人々の御苦労により現在に至っており、著作はこれらの人々によって発刊されたものです。

 多賀谷左近三経伝は、坂本豊先生と発掘作業にあたられた吉村幸夫氏(現ふるさと語ろう会会員)から話を伺い、墓所に案内されたことがきっかけで取り組んだ次第です。

 多賀谷氏を語るには結城氏を知る必要があります。結城氏と多賀谷氏のルーツから始まり、結城氏と多賀谷氏との関係を調べました、その結果まとめたのが「戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝」でした。

 三部構成でなり、一部は戦国時代の結城氏と多賀谷氏伝。二部は越前入国から柿原郷多賀谷氏廃絶までの結城氏、多賀谷氏伝。三部は結城秀康の末裔たちのその後(明治維新まで)の資料を集め、まとめました。

「戦国非情・・・」をトンボ作品リストに掲載したところ、奉賛会会長・酒井禧祿氏の目にとまり、一部、二部を「多賀谷左近三経公記」で紹介されることになりました。

 以上の経緯でお分かりのように、この著作に本当に汗を流されたのは奉賛会のみなさん、地元のみなさん、専教寺御住職、当初から発掘作業に携わってきた吉村幸夫氏、なによりも故坂本豊先生です。私など名を連ねることすら赤面の至りと感じております。

 調べながら感じたのですが、とにかく謎が多いのです。まだまだ研究の余地があると言えます。したがって私の調べたことにも錯誤がある可能性があります。異説も当然出てくるでしょう。歓迎します。それが新たな解明につながります。

 願わくば、この著作をきっかけに多賀谷左近三経、柿原郷多賀谷一族、柿原郷の研究が進むことを望んでおります。

 奉賛会の皆さん、酒井さん、吉村さん、御苦労さまでした。

540.芸妓物語  「牡丹悲話」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/3/26(木) 16:47
 トンボ作品リストに「牡丹悲話」を掲載しました。時代は昭和10年代から32年代、津軽と芦原温泉を舞台に流れ芸妓を描いた作品です。作中、芦原大火についても取り上げています。主人公は薄幸の津軽三味線の名人、山田多恵(芸妓名牡丹)。フィクションですが、時代背景などは事実に基づいて描きました。興味のある方、お読みください。

 尚、この作品は平成14年度、鯖江市の近松文学賞に入選しましたが、私としては不本意な作品でした。
(応募規定により原稿枚数が制限されており、中途半端な作品に終わりました)

 今回、内容を一部変更、書き足しております。まだまだ未熟な作品ですが、素材そのものは一定のレベルに達していると自負しております。

 「丸岡藩騒動記 第三部 剣技(2)」も掲載します。こちらは時代小説で、「牡丹」とは作風がまったく異なります。長編で完成はいつごろになるか、私にも掴めません、気長に書いてゆきます。

 その他にも、ときおり短編をトンボ作品リストに掲載します。
トンボ作品集では「トンボの料理日誌」を掲載しています。

 

539.印牧那雄 先生 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/3/22(日) 10:48
 牧田氏の写真からおわかりのように上品で穏やかな紳士である。大正11年生まれだから92歳になられる。背筋がピーンとはり、とても御年には見えない。

 名刹性海寺(しょうかいじ)の御住職であり、教育者であり、郷土史の研究者でもある。性海寺そのものが歴史遺産というべき存在で、裏の墓地には歴代森田家当主の墓碑がある。織田信長が越前に侵攻した時(1573年)、当時の森田家当主が出迎えたという記録が残っている。

 信長は森田家に安堵状を与えた。森田家が織田方の越前侵攻、支配に協力した見返りに与えたもので、森田家に危害を与えてはならぬと記されている。

 薄幸の俳人、絶世の美女、森田愛子は大正、昭和に活躍した森田三郎ェ門の庶子。高浜虚子の薫陶を受けた。高浜虚子との師弟愛を描いた小説「虹」(高浜虚子著)が出版されると、世に衝撃を与えた。愛子を偲ぶ句碑(その横に見事な紅梅の巨木があり、満開の紅梅が私たちを迎えてくれた)、墓碑がこのお寺にある。

 正保元年(しょうほう。1644年)、越前新保村の船頭、竹内藤右衛門ら58名が北前交易で松前に向かったが、難破し、韃靼(だったん。現タタール)に漂着した。当時は中国の支配地で、明王朝が清に倒された時期でもあった。43名が現地の女真族(満州族)に殺害され、生存者15名が北京に連行され取り調べを受けた。後に手厚いもてなしを受け、2年3ヶ月の北京滞在を経て帰国を許された。

 北京での滞在記録を携えて帰国した彼等を待ち受けていたのは幕府の取り調べであった。厳しい鎖国政策をとっていた幕府には海外情報は全くといってよいほど入ってこない。

 当時の中国は明朝から清朝に移る激動の時代で、清に倒された明は徳川幕府に支援を求めた。つまり中国出兵を要請していたのである。

 彼等はつぶさに清朝の政治、軍事体制を述べ、国都北京の繁栄について述べた。清朝が漂流民を手厚くもてなし、帰国させた理由はここにあった。漂流民を通して、内乱は終息し、清朝体制が盤石であり、明朝の復活はありえないとのメッセージを徳川幕府に伝えたのである。

 三代将軍家光の時代であった。幕閣の意見は分かれていた。大阪の陣(1615年)から30年、国内統治に専念すべきか、内乱に乗じて大陸制覇を目指すべきか、の議論が重ねられてきたのである。

 漂流民がもたらした情報により、幕府は明の要請(大陸出兵)に応じなかった。清の思惑通りに事が運んだのである。彼等は鎖国の禁を破った罪を問われることなく、帰郷を許された。ただ最年少の青年が丸岡藩に仕えたとの記録がある。

 竹内藤右衛門は三国に戻ると、異国に散った仲間の菩提を弔った。その墓が性海寺にある。

「三国でも韃靼漂流記を知る人はほとんどおりません」と、印牧先生は仰った。江戸初期、幕府の対外政策に大きな影響を与えた漂流民の記録は極めて貴重である・・・にもかかわらずである。中央で話題にならない限り、地方の歴史は埋もれたままである。

 2時間ほどお話を伺い、お別れしたのだが、雨の中にも関わらず車まで見送りいただいた。真新しい仏堂があった。太子堂で最近建立されたそうである。先生は、
「これが最後の仕事となるでしょう」と仰った。

 4月には先生を金津に案内することを約束して私たちは名刹を離れた。桜の頃に是非お逢いしたい。

537.北陸新幹線・サンダーバード・しらさぎ 返信  引用 
名前:通りすがり人    日付:2015/3/14(土) 12:36
北陸新幹線の開業に伴い、並行在来線で大阪方面と北陸を結ぶ特急「サンダーバード」と、名古屋方面と北陸を結ぶ「しらさぎ」は金沢止まりとなる。そして、敦賀まで開業になったら同様になる。

東京方面からの観光客に対しては優しく利便性が増すが、関西方面の観光客にとっては不便となる。

関西の奥座敷と言われた芦原温泉もキャッチフレーズを考え直さないとという気もする。
しかも、地元の人が京都や大阪へ遊びに行く時はかなり不便だし、ビジネスマンにとっても同じ。

北陸新幹線開業での賑わいのもいいが、そのうち別の問題で悩むような時期が来るような感じもしますね。

536.素直に喜べない 返信  引用 
名前:かなざ あわら    日付:2015/3/14(土) 11:32
東京のテレビ局や石川のテレビ各局でも北陸新幹線の話題でいっぱい
FBCでも福井放送でも関連の放送やってたけど、なんか福井は蚊帳の外って感じで寂しいですね

535.北陸新幹線と市長選挙 返信  引用 
名前:通りすがり人    日付:2015/3/13(金) 14:13
●独り勝ちの金沢、焦る富山と福井 「北陸新幹線」開業の経済効果●
こういうタイトルで今朝、ヤフーニュースが流れました。

3月14日の金沢までの開通を間近にしてのこのニュース
確かにうなづけるような内容の記事なんですよね。福井、芦原温泉駅に新幹線が通るのは、早まったとはいえかなり先です。ただでさえ北陸の中心は金沢、なのに福井県まで同時に開通しない。話題は金沢に集中します。

さて、あわら市としては今後、芦原温泉駅周辺整備が具体的になっていくのだろうと思いますが、それと並行していかに集客をするのか、この駅で降りていただくためにどういうことをしたらいいのか。そういう論議を活発にしてほしいと思っています。

そのためには、あわら市にある既存の観光地への力入れそして、隣接の坂井市との連携。とくに三国の観光地とは市の垣根を越えた連携が必要になってくるのではないかと思うのです。

ですから、今回の市長選では是非そういう点を中心に議論をしてほしいと思いますね。市民が注目するいい時期ですよ。公開討論会開催の話も是非積極的に両候補が快く引き受けてほしいと思いますし、いろんな組織が働きかけをして頂けたらありがたいものです。

534.丸岡藩騒動記 作造の仇討 第二部脱稿 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/3/1(日) 12:6
 丸岡藩騒動記 作造の仇討 第二部 駆け引き(1)、(2)、剣技(1)を脱稿しました。トンボ作品リストに掲載。興味のある方、第一部とあわせてお読みください。

 尚、この作品は本多丸岡藩の改易を題材にしておりますが、内容は私の創作でフィクションです。予めお断りしておきます。

 トンボ作品リストに掲載することは技術的に困難でしたが、牧田さんのご協力により可能になりました。お礼を申し上げます。
 引き続き、4部、5部、6部・・・と、完了するのはいつになるかわかりませんが気楽に続けていきます。

533.公開討論会は是非おこなうべし 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/2/17(火) 15:44
 JC(記憶違いでなければ日本青年会議所あわら支部)による市長選挙候補者の公開討論会申し入れに対し、一人は応じ、一人は辞退したと聞いた。
 間違いであることを望む。堂々と議論を戦わせてこそ市長選挙に相応しい。事実であるなら極めて残念だ。

 どのように判断されたか知る由もないが、あわら市が後進地域から脱却するには、まず開かれた自治体でなければならない。そのためには従来のどぶ板選挙、地域対立の選挙から決別すべきなのだ。広く市民に立候補の思いを訴える、堂々と論戦を挑む、候補者にはそれを望みたい。それがまず第一歩だろう。

 今からでも遅くない、公開討論会に応じていただきたい。

532.歴史を訪ね蕎麦を賞味す 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/2/13(金) 11:6
 牧田さんのブログにもあるように昨日は川西地区を訪ねた。

 福居藩五代藩主・松平光通(みつみち)と正室国姫、側室お三の方の悲劇。妾腹権蔵の数奇な運命に関わる秘史が此の地域に残っているからである。あいにくの小雨で歴史道を散策することはできなかったが、古民家で蕎麦と酒を堪能した。

 造り酒屋でもあるこの店では、目の前でうった蕎麦を提供する。文字通り十割蕎麦で、香りが素晴らしい。それに酒、自慢の大吟醸をいただいた。

 大吟醸の冷酒は一年もののワインのようにフルーティである。大吟醸は酒米を通常よりもはるかに研ぐ。外殻部分のたんぱく質など酒の雑味になる成分が除去され、でんぷん質だけが残る。それを発酵させるから味わいが果実酒に近くなる。

 口当たりが良い、だから飲みすぎるというきらいはあるが、それはあくまでも飲み手の責任。

 温かいおろし蕎麦でコップ酒を飲む。次は笊蕎麦と酒を注文。我流の食し方。酒を飲む、蕎麦を出し汁につけず、蕎麦だけで食す。それを繰りかえす。時々出し汁を飲む。蕎麦本来の味を楽しめる。もっともこの食し方は蕎麦が絶品であることが条件。

 何事も素朴さがベスト。例えばビールにはバタージャガイモが最高。フランスパンにバター、焼きおにぎりもよい。日本酒なら蕎麦の他といえば夏は冷や奴、冬は湯豆腐。塩辛、漬物も好い。ウイスキーはただウイスキーだけを飲むのがベストだが、チョコレートも悪くはない。

 ワインなら、ワインはあまり飲まないから分からないが、花ラッキョウを爪楊枝に2・3個刺して、あとはフランスパンの薄切りにニンニクバター。ベーコンを乗せてもよい。ベーコンの代わりに塩辛を乗せてもいける。

 これはあくまでも私のやりかた。食し方は人それぞれだが、シンプルな方が良い。グルメ、グルメと騒ぐが、食の本来の味を知らずして、とどのつまりは不味くしいるだけ。

 とかくこの世は無駄が多すぎる。それが価値あることと錯覚しているから手に負えない。

 女将さんから江戸時代の古文書を見せていただいた。崩し文字であり、多少酔っており詳しくは判読できなかったが、おそらくこの辺りは街道筋で、人足、馬の提供を奉行に申し出ている書状だろう。いわゆる助郷の約定書である。

 さて昨日は私はコップ酒2杯、少々物足りなく一升わけていただいた。ゆっくり楽しもう。

  

531.(untitled) 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/2/5(木) 21:51
 昨日の牧田氏のブログで「金津の夜明け」を紹介していただきました。ありがたいことと感謝しております。

 この作品は石碑「仲仕組創立総会之碑」を調べているうちに、碑文の冒頭にある(明治三十年秋九月鐡路竣工汽車始通爾来気運一・・・)に惹かれ鉄道史を紐解いたのが始まりでした。文献を読んでいるうちに、これほど貴重な資料が金津町史に一行も触れられていないことに驚きました。意外とそういうものかも知れません。

「戦国非情 結城氏・多賀谷氏伝」もそうですが、歴史のある金津には興味ある素材がたくさんあります。それらを芦原地区の人たちに知ってもらうことが私の目的です。

 同時に金津地区の人たちが芦原地区の歴史、文化を理解していただくことも期待しております。できましたら金津地区でお住まいの方に取り組んでいただければ最高なのですが・・・。

 まもなく県議会選挙、あわら市長選挙が始まります。旧町にこだわらず、お互いの歴史、文化を理解し、その上で政策論で争う選挙であって欲しいものです。偏狭な地区対立の選挙だけは御免蒙ります。狭い地域で不毛な対立から脱却できないのは後進地の証拠。他県、他の市町村から嘲笑されるだけです。

 それはさておき、今「丸岡藩騒動記」に取り組んでおります。第二部までは「トンボ作品リスト」に掲載しましたが、今月中に三部、四部を掲載します。

530.金津の夜明け・・・北陸線開通。金津駅開業の経緯そして「仲仕組創立総会之碑」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/1/27(火) 19:1
          東北鉄道会社創立願  (明治十四年八月)
伏シテ惟ルニ維新以降百度改進シ而シテ其主トスル所専ラ運輸ノ利ヲ興シ殖産ノ道ヲ開クニ在リ故ニ海ハ即チ港湾ヲ修シ燈台ヲ築キ以テ舟楫ニ便シ陸ハ即チ嶮峻ヲ鑿シ橋梁ヲ架シ以テ車馬ニ益ス是ハ以テ万里此隣ヲ為シ西陬北蝦ノ遠キト雖モ旬日ヲ出スシテ至リ随テ産業豊盛シ各地人民皆ナ其恩波ニ浴スル事ヲ得然ルニ北陸ニ一道帝京ヲ距ルコト僅ニ百有余里而シテ北海ニ瀕シ峻嶺重畳トシテ急湍数波其間ヨリ横流シ崎嶇艱難ニシテ行旅跋渉ニ苦ミ程途常二旬有余日ヲ経過シ・・・

 上記の上申書は北陸に鉄道を敷設する会社(東北鉄道会社)の創立願の冒頭文です。発起人は越前・加賀・越中の旧大名(松平慶永、前田利嗣ら十一名)及び東西本願寺の法主あわせて十三名、連名で請願書を提出しました。この上申書が北陸線敷設運動の始まりでした。

 以下、資料は全て候文で現代文に直すのに手間取りましたが、ようやく完了しました。資料から北陸線敷設が幾度となく挫折し、さらに最終局面に至って金津経由と三国経由で、鉄道官僚、経済界、軍部を巻き込み紛糾しました。最後は金津経由で決着したのですが、当初計画の私設北陸線敷設が挫折に至った経緯、紆余曲折を経て官営鉄道に至った経緯、鉄道会議での論争、当時の金津町長・坂野深、衆議院議員・杉田定一らの書簡を記載しました。

 併せて「仲仕組創立総会之碑」についても関連つけて紹介します。
地味な作品ですが、明治期の郷土資料になればと思い投稿しました。「トンボ作品リスト」に掲載しますので興味のある方、お読み下さい。

529. お金の話 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/1/21(水) 22:37
 日本では初対面の人との会話でお金のことを持ちだすことは恥ずべきこととされている。首相が歴訪先で援助金額を得意げに発言することは日本人の美学として見苦しい。聞く者を不愉快にさせる。「民生向上に協力したい」とのみ発言し、後は事務方に委ねることだ。

 行く先々で「日本は何億、何十億ドルの援助を実行する」と発言することは経済大国の首相として優越感には浸れるであろうが、援助を受ける相手国への配慮に欠ける。援助する金額を強調することは首相安倍氏個人のみならず、日本人の思い上がり、卑しさを露呈するだけで、感謝も尊敬もされない。

 このような常識を一国の総理が理解できないのだろうか。品性に欠ける、情けない話だ。

 さぞかし金がありあまっているであろうと、日本人を誘拐すれば金になるとの錯覚をテロリスト、犯罪集団に与えかねない。

 貧困、病気、飢餓、戦乱に苦しむ国々に支援をするのは賛成だが、自慢げに、相手の自尊心を損なうような恥知らずな発言は慎んでもらいたい。

 お金の話はとかく汚くなりがちだ。そのことを自戒するかどうかで人間の品格が定まる。お金の話を自慢げに語る人間や、何事もお金に絡めて話する人間を私は信用しない。

528.戦後70年 No2  傷痍軍人と異国の丘 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/1/10(土) 16:47
 年配の方なら覚えていらっしゃると思うが、昭和40年代まで初詣、祭りなど人が集まる場所には必ずといっていいほど戦闘帽子に白衣姿の傷痍軍人が立っていた。参拝客、来場者に施しを求めていたのである。

 隻腕、隻脚の人達、義手義足を付けている人もいればむき出しの人もいる。彼等のなかにアコーデオン弾きが数名いて、異国の丘を奏でる。

 異国の丘は、シベリア抑留兵が望郷の念にかられ厳寒の収容所で歌っていた曲である。帰還兵がNHKのど自慢で歌ったことから広まり戦後もっとも日本人の心をゆさぶった名曲となった。多くの歌手が歌っているが記憶では東海林太郎、藤山一郎、三浦洸一が残っている。

  今日も暮れゆく異国の丘に 友よ辛かろ切なかろ 
  我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ 
  帰る日も来る 春が来る

  今日も更けゆく異国の丘に 夢も寒かろ冷たかろ
  泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
  望む日が来る 朝が来る

  今日も昨日も異国の丘に 重い雪空 日が薄い
  倒れちゃならない 祖国の土に
  たどりつくまで その日まで

 傷痍軍人の痛ましい姿と、哀愁と切なさを帯びた曲に人々は心を打たれ、寄金をするのである。

 数年して、「彼等は傷痍軍人ではない。傷痍軍人の姿をして寄付を募っているのだ」という声が聞こえるようになった。その声が広まると彼等を見る目が冷やかになってきた。

 私もその一人で、彼等から目をそらすようになった。中学生の頃である。世間の声を単純に信じていたのである。

 最近、考えの誤りに気が付くようになった。彼等の多くは傷痍軍人ではないかも知れない。だが腕を脚を失った彼等は物乞いで生きるしかなかった。では何故彼等が悲惨な障害者になったのであろうか。

 昭和12年(1937年)、日中事変から、昭和16年の太平洋戦争突入、20年8月15日まで日本は戦時下にあった。兵隊に駆り出された多くの人々がいた。一方で内地、あるいは外地で過酷な現場で働く人々もいた。炭鉱で、採石場で鉱山で働く人々、軍需工場で働く人々である。

 追い込まれた日本は極端な生産第一主義に走り、安全性は無視された。これらの現場で多くの犠牲者が出た。彼等は国によって使い捨てにされた人々たちである。それを救う法律は国になく、それを問題視する風潮すら日本にはなかった。

 彼等が生きるために傷痍軍人の姿を借りたとしても、責める資格は誰にも無い。

 いったん戦争となれば、誰もが犠牲者になり得る。戦場であろうとなかろうと関係はない。どんなに理屈をつけようとも、正当化しようと戦争は罪悪である。一人一人が戦争の悲惨さを直視する、戦争の本質を見極めることが大切だと思う。

527.戦後70年 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/1/5(月) 18:15
 昭和20年(1945)8月15日、戦争が終わった。あれから70年、戦争を語れる人は少なくなった。集団自衛権が容認され、自公政権は前の総選挙で圧勝した。憲法改正も彼等の視野に入った。

 国民の圧倒的多数がそれを支持するなら止むを得ない。だが戦争の悲惨さを知った上での選択かを問いたい。

 昭和19年生まれの私には戦争の実体験はない。だが昭和22年頃からの記憶はある。戦争の悲惨さはまだ残っていた。その記憶をたどりながら、折に触れて戦争を語っていきたい。

 比島戦線からの復員兵がいた。近所のおじさんで、少々怖かった。何が怖いかと言うと、彼はよく蛇を捕まえた、それが蝮であろうと平気なのである。あの頃は原っぱがあり、蝮も珍しくはなかった。

 彼は生きたままの蝮を鮮やかに引き裂く。肝を飲むと、ナイフで手際よく捌き、竹串を用いてまるで鰻の串焼きのように焼く。怖いもの見たさに子供たちが周りを取り囲む。焼きあがった蝮の塩焼きを子供たちに勧めるのである。それは鰻の白焼きにそっくりであった。

 好奇心から少々食べた。どんな味だったか覚えていないが、パサパサした食感だけは残っている。「昆虫も蛙も食ったが蛇が最高の御馳走だった」と彼は言った。

 大陸から引揚者だったおばさんは「鼠は意外と美味しいのよ」と言った。米も高粱(こうりゃん。トウモロコシ)も手に入らず、食べれるものは何でも食べた。鼠も貴重な食べ物だった。
実際、彼女は私たちの前で七輪(しちりん。死語だろうな)の炭火で鼠を丸焼きにした。

 さすがに気色悪く、私はその場を離れた。彼女の鼠を食らう姿は見ていない。見ればその夜は悪夢にうなされたであろう。

 戦争とはそういうものでもある。

526.「丸岡藩騒動記〜」よみました 返信  引用 
名前:西南納人    日付:2015/1/3(土) 11:13
 暗愚な藩主のもと、本多派と今後が楽しみですね。よろしくお願いします。

524.ゆく川の流れは絶えずして・・・。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/12/31(水) 23:54
 ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
 久しくとどまりたるためしなし。
 世のなかにある人とすみかと、またかくのごとし。(方丈記)
  
 時もまた流れは絶えずして、しかももとの時にあらず。日は沈み、また昇り、そのくりかえしが永遠(とわ)に続く。
 
 昨日も今日も明日も何も変わらない。違いは時間の経過だけである。それでは時間とは何か。

 鴨長明は無常という。
 
 朝に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
 知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来たりて、いづ方へか去る。

 いづ方より来たりて、いづ方へか去る・・・。無から生じ、消滅し大自然に回帰する。無常から常態へ、本来の姿に戻る。死、消滅とはそういうものであろうか。悪くはない。

 この世はしょせん泡沫(うたかた)、と思えば一喜一憂することはない。艱難辛苦に絶え、努力を重ねるも一生。成りゆきまかせ、自然体で生きることも一生。五十歩百歩である。ならば来年は思うまま気ままに生きよう。

 と、御託を並べながら酒を飲み新年を迎える、これもうたかたの一興、悪くはない。
 

523.本日の新聞を読んで 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/12/28(日) 17:35
 本日の福井新聞「川のめぐみとともに」で竹田川水運がもたらした富と繁栄、水運事業の盛衰を牧田さんが述べられている。

 彼の川への愛着は並大抵ではない。今でもメダカ、ザリガニとりに興じ、幼い頃の思い出、竹田川の変遷を熱く語る。根底にふるさと愛があり、その想いが古里(ふるさと)の自然に向けさせている。

 声高に故郷愛(ふるさとあい)を強調するのではなく、日常そのものが古里を感じさせるのである。酒を愛し、友を愛し、数々の女性に慕われ(?)、古里を愛す、まことに彼に相応しい記事である。

 皆さんも一読を・・・。

522.市長選挙 返信  引用 
名前:通りすがり人    日付:2014/12/26(金) 22:33
下の方同様、今回の選挙で現在あわら市に存在する課題や問題点を議論を通じて改めて市民に知ってもらうということはいい事であると思うが、出馬の動機には何か無理を感じる。

過去の無念を晴らしたいという本人の気持ちもわからないではないが、
争点にしてはならないことを敢えて出馬の動機にしているようにしか見えない。

旧金津町町民と旧芦原町町民とのしこりは中学校問題で懲りたはず、現市長と市議会とのしこりもやっと落ち着いたのでは思う。ここで対立を蒸し返すような事は合併そのものを今になって否定するようなものでもある。

本人が言われる傾向が仮にあるとしても、あのようにあからさまに言う事はそのこと自体で、旧芦原町町民の感情に火をつけるようなもので、やっと胸の奥にしまいかけたあわら市全体の融和の心を壊してしまう。

芦原温泉も今はあわら市の一部、旧芦原町と捉えてはいけない。

現在、主な行政関連の施設である市役所・消防署・県の機関である金津高校・旧保健所等々は旧金津町にある。対立を煽る訳ではないが、そういう施設の利便性という意味では旧金津町民の方々の方が暮らしいい訳である。

企業誘致等にも大きなお金を投じている。また、新幹線整備の時期が早まったことで今後急ピッチで芦原温泉駅(旧金津町)周辺整備に多額なお金が投じられることであろう。

それらの事を考えた場合、そうバランスが崩れた財政のあり方ではないように思う。

さらには、移住や婚姻あるいは雇用面等々で旧町同士には、多くの色んな行き来が既に発生しているのである。

もはや旧金津町、旧芦原町と区別すること自体ナンセンスになっているのではないだろうか。

521.あわら市長選へ一言 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2014/12/26(金) 22:20
 本日の朝刊で大下氏が市長選への立候補を表明した記事が掲載された。
複数の候補者が立候補し議論を尽くすことを歓迎、立候補を評価したい。

 出馬の動機として多大な予算を投入した施設設備など温泉街を中心としたまちづくりに疑問を呈し「合併後、市を多大な税収で支えてきたのは旧金津町の優良企業。そこを活力源に、市民の暮らしを第一に考えた市政へ方向転換を図りたい」と述べている。

「?」違和感を覚えた。企業には時代により浮き沈みがある。観光産業に将来性がないのならともかく、国の基幹産業に位置付けられている。なによりも観光産業が育たない地域には他産業も育たない。各自治体が力を注ぐのはそのためである。施設整備への投資にはさまざまな意見があるとは思うが、地場産業育成のためにも産業の多様化という意味でも、観光産業の役割を認識していただきたい。

 冒頭の文言が旧金津町と旧芦原町の住民感情の対立を煽りはしなかと危惧する。それが戦略なら淋しい。自治体の首長に就こうとするなら住民の一体感を目指すのが第一。そこから活力と創造性を引きだす能力を備えていることがリーダーの条件だ。

 地域対立を持ち込めば、市長選は旧弊の封鎖的な選挙から脱け出だせず、候補者本人はもとより市民の見識も疑われる。そのような選挙戦は結果はどうであれ双方にしこりを残す。選挙後の市政運営を困難にさせるだけだ。地域を前面にだすのは避けていただきたい。

 あわら市長には広い視野と高い見識を求めたい。それ以外の例えば性別、年齢、学歴職業であろうと、政党、出身地であろうといかなる枠も外し、候補者の能力と見識を重視する選挙であるべきだ。

 提案したい。いずれが相応しいか市民が判断するためにも公開討論を実施していただきたい。

 県議選も現職の笹岡氏に東川氏が挑む。東川氏の決断を評価する。県議選も従来のどぶ板戦術ではなく、議論を公開の場で交わすことを希望する。

市長選にしろ、県議選にしろ無投票は避けられた。大下氏、東川氏には敬意を表したい。各候補者、堂々と戦っていただきたい。


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