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581.三国史跡探訪 2 「竹内松右衛門記功碑」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:39
 桜谷公園(山王六丁目)は三国神社を登った所にあります。此処には富理姫宮(ふりひめのみや)の碑があります。三国と男大迹王(おほどのおう)とは密接な関係にあり、その母君である振媛命(ふりひめのみこと)を顕彰する碑です。

 三国は万葉集にも登場します。万葉集巻七に
 三国山 木末(こぬれ)に住まふ鼯鼠(むささび)の鳥待つが如吾待ち痩せむ。

訳)三国山の木末に住んでいるムササビが鳥を捕えようと待つように私はあなたを待ち焦がれて痩せてしまうでしょう。

 その句碑 万葉集三国山歌碑があります。

 しかしなんといっても圧巻は「竹内松右衛門記功碑」でしょう。
松右衛門は宝暦期の三国港の問丸(といまる。流通業者)でした。宝暦四年(一七五四)の秋、五穀不作で港民は飢餓に苦しみました。翌五年福井藩から蔵米を大阪へ積み出すように命じられたのです。そこでひそかに仲士組に依頼して土と籾殻をつめた俵を作らせ、これを三国湊から積み出してから故意に船を沈没させました。松右衛門はその罪を一身に負って自害して果てたのです。蔵米は港民に行き渡り飢餓から救われたと伝えられています。

 この記功碑は、明治十八年(一八八五)三国仲士組が松右衛門の功績を顕彰して建立したものです。ちなみに、竹内家菩提寺性海寺の墓地にある竹内浩三家墓地中に「宝暦五年五月十一日 実証義覚信士」と刻字のある墓が松右衛門の墓と伝えられています。(三国史跡(1)写真NO7竹内松右衛門の墓参照)

 上記文章は「三国港町の名所旧跡と文化遺産」(印牧邦夫先生著)から引用しました。

 素晴らしい石碑が幾つもありますが、それを抜きにしても公園は良く整備されており、九頭竜川河口、日本海を望める絶好の散策コースで訪れることをお奨めします。
 なお私たちは松右衛門さんの墓を拝見した後、末裔の人が経営するお店でお蕎麦をいただきました。これが又絶品でした。

 次回は森田家の石廟と五輪の塔、韃靼漂流民、竹内藤右衛門の墓、さらに性海寺の歴史、及び印牧先生の話を紹介します。

582.三国史跡探訪  3  性海寺(しょうかいじ) その1 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:33
 性海寺の創建は延文元年(1356)。尾張の律僧(りっそう)宗信(そうしん)が宿浦篠谷(ささだに。現三国町宿)に一宇を建立、篠谷山性海寺と称しました。

 永徳元年(1381)、第二世空信(くうしん)は、千手寺六坊(せんじゅじろくぼう)及び竹内氏等の招聘により千手寺多門院跡(現在地)へ移転、真言宗に改宗したのです。

 戦国時代は朝倉氏代々の祈願寺として保護を受け、孝景、氏景より田地を寄進されています。河口庄の豪族で三国湊の代官を務めた芦原町縁の堀江一族も帰依しています。

 天文二十年(1551)七月二十一日、唐船が三国湊に来航。二十五日に入港、唐人の数百二十名、船頭は南山(ナンセン)といい副船頭は清山(シンセン)という者で、小谷六郎左衛門という者の家を宿所にした。近国遠地から僧俗男女みな外国の事を聞こうとして続々集まり賑わった。商人に赤いつむぎを海風にはためかせると、見物の人々まで港にあふれるほどまわりに集まった。昔より三国湊には唐船の入港やこの賑わいなどなく、まことに希なできごとであった。(朝倉始末記巻第二記述より)

 この後、一行は性海寺を訪れ、その際南山は漢詩を残しています。その末尾部分。

 興殫又愕旅船夢 性海寺中半夜鐘

(読)興(きょう)殫(つきて)又(また)愕(おどろく)旅船夢(りょせんのゆめ)
  性海寺中(しょうかいじちゅう)半夜鐘(はんやのかね)

 性海寺中の半夜鐘は篠谷山の晩鐘とも云われ、三国名所の一つに数えられていました。その音に南山らは感嘆したのでしょう。異国人を驚かせた半夜鐘は先の大戦での金属回収令により没収されたと住職である印牧先生は説明されました。重文級の文化財だけに残念です。

 江戸時代前期の寛文六年(一六六六)、福井藩第四代藩主松平光通(みつみち)公より朱印若干石を附与され(安堵及び寄進)、また葵紋の絵符を授与されるなどの優遇を受けるほどの名刹でした。

 天和二年(1682)京都仁和寺覚助法親王より御室御所の一院の兼帯(兼務)を命じられ厳浄院(げんじょういん)と称し、翌三年、篠谷山の山号を金剛寶山(こんごうほうざん)に改めました。皇室のご紋章菊花の使用が許され、山門の扉や屋根瓦等に使用されています。

 江戸後期の天保十年(1839)、滝谷寺と共に永代移転寺十ヶ寺の中に加えられ、住職交代の際は、智積院(ちしゃくいん)第一座の高僧を後任に迎えました。したがって性海寺の住職は世襲ではなく、出身地も全国に亘っています。

 また常法談林(じょうほうだんりん。学問、修行の道場)として新義(しんぎ。真言宗の教義)学徒研鑽の学林でもあったのです。江戸時代は越前、加賀の触頭(ふれがしら。寺院のまとめ役)を勤めるなど、当地では滝谷寺と並ぶ古刹です。
(三国港町の名所旧跡と文化遺産より紹介)

 性海寺を包む森は、性海寺叢林(そうりん)と称され常緑照葉樹林群です。樹種は樹齢数百年と推定されるタブの巨樹をはじめシイ、ヤブツバキなどで、これらの樹木で寺叢林が形成されています。こうした寺叢林がかもしだす静寂な寺域の中に、清水健次郎文学碑、女流俳人森田愛子の墓などが建立されています。
(性海寺の叢林)

 性海寺は歴史に包まれた寺です。墓碑に、樹木に歴史の痕跡が刻まれているのです。

583.三国史跡探訪 4  性海寺 その2 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/19(金) 6:23
 永徳元年(1381)、第二世空信のとき性海寺を現在地に招聘した門徒として竹内氏の名前があります。(NO582参照)それ以来、竹内氏は性海寺の有力門徒の一人でした。前回紹介した竹内松右衛門の墓は三国史跡NO1の写真NO7。

 
 さらに竹内藤右衛門の墓(NO8〜12)。寛永二十一年(1644)、新保村の船頭竹内藤右衛門、藤蔵親子ら58名が三艘に分乗して交易のため松前へ出帆しましたが、強風のため韃靼国(中国東北部)へ漂流。藤右衛門ら43名が現地人(ツングース族)により殺害され、生存者15名が清朝役人により北京へ護送されました。(彼等は途中万里の長城を超えたのですが、長城越えの最初の日本人とされています)。一行は清朝の優遇を受け、後に朝鮮の首都京城(けいじょう。現ソウル)を経て帰国しました。生存者を代表して国田兵右衛門、宇野与三郎が幕府に召喚され取り調べを受けました。

 二人が当局者に清朝での見聞を語ったのが本になり「韃靼漂流記」の書名が付けられました。鎖国時代の貴重な外国見聞記です。内容を知りたい方はあわら市図書館に所蔵されているので、そちらで。

 藤右衛門の墓は菩提寺である性海寺墓地の東辺中央、故郷新保村を望む位置、少し離れた東辺に韃靼漂流者供養碑が建立されています。

 性海寺の大壇越(だいだんのつ。最大の庇護者の意)森田一族の墓所が時代別に三か所(前期、中期、後期)あります。(写真4〜6)。

 前期(室町後期〜江戸前期)の墓所は本堂背後の歴代住職の墓所に隣接して存在しています。笏谷石製の小型の石廟十三基からなり、内部に五輪塔を安置されています。各輪には蓮華座と月輪を配置し、その中に五輪種子が彫られた類希な五輪塔群で、史跡としての存在価値は極めて高いものです。

 中期(江戸時代前期末〜明治前期)の墓所は前期墓所の東方、やや小高い所に位置する笏谷石製の五輪塔群です。正面が明治九年(1876)に没した森田家中興の祖、三郎右衛門の大五輪塔があり、その参道の両脇に七基、八基の歴代当主の五輪塔が並んでいます。

 後期(明治中期〜昭和初期)の墓所は最奥部に位置します。正面中央が明治四十五年(1912)に没した三郎右衛門の墓で、左右両側に十八基が並ぶ。左方に女流俳人森田愛子と姉敏子の姉妹墓があり、毎年四月一日(愛子の命日)には愛子を慕う人か集います。

歴代住職の墓碑群にも圧倒されます。とりわけ異彩を放っているのは慶長四年(1599)在名の住職の五輪塔で、総高二メートルの大型の越前式五輪塔はこの時代の塔としては極めて珍しく、貴重な史跡といえます。

 上記のように性海寺には凝灰岩製(笏谷石)の石塔や石仏類が数多く残されており、笏谷石移出港の密教寺院らしく、竹内家、森田家を含めて、五輪塔、多宝塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう。仏塔の一形態)など種々様々な墓碑が存在する石造遺物の宝庫の寺院ともいえるのです。

「三国港町の名所旧跡と文化遺産」より引用。

 不遜な言い方ですが、墓碑群は(境内の叢林を含めて)歴史、文化遺産の集合体ともいえるのです。そうであってももちろん弔意を示さなければなりません。

 今回、私たちは拝観を許していただけました。貴重な史跡であるとともに、神聖な区域でもあります。何時でも誰でも拝観できるというわけではありません。事前の許可が必要であることは性海寺に限らず、どちらの寺院でも云えることです。

 最終回は印牧先生のお話。
 

584.三国史跡探訪 5  性海寺 その3「平成墓地」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/18(木) 23:6
 性海寺墓碑を拝見した後、枯山水の庭園を望む書院で印牧先生のお話を伺いました。(常緑広葉樹の)自然林を活かした趣のある庭園です。先生は歴史への思いを述べられ、市内市外を問わず多くの人が史跡に接し郷土の歴史文化を理解することの大切さを述べられました。

 その後、性海寺の現在について触れられたのです。人口減少、流失は地域社会の存続に関わる問題ですが、寺院も同様に多くの問題を抱え込んでおります。とりわけ無縁墓が問題になっています。皮肉なことに歴史ある古刹ほど深刻なのです。

 印牧先生は無縁墓の増大に心を痛めておられました。たとえ誰にも顧みられない無縁墓であっても供養せねばと境内の一画に「無縁墓地」を建設されたのです。困難な事業でしたが先生の思いが多くの人を動かし完成しました。その墓地は「平成墓地」と名付けられ、供養されております。

 歴史家として先生は多くの著書を発表され郷土に多大な功績を残されていますが、それ以上に先生の魅力は人への優しさにあります。ご指導を受けていますが、日々その思いを強くしております。

 先生はあわら市の歴史にも興味をお持ちで(芦原町史は印牧先生が編纂されています)、「仲仕組創立総会之碑」についても拓本採集され、貴重な助言をいただいております。

 史跡探訪の後、仲仕組創立総会について意見を述べられました。最後の部分を紹介して「三国史跡探訪」の締めくくりとします。

「明治三十年(1897)北陸本線福井ー小松間が開通し、金津駅が完成すると、物流がこれまでの水運から陸運に転換した。この一大変革で仲仕たちの生活は深刻な影響を受け、失業の危機にさらされた。

 このような時に仲仕組が創立されたことは、仲仕たちにとって、まことに‘干天の慈雨’であった。この変革期に水陸の荷役に携わっていた金津の仲仕たちは、新たな物流組織をつくろうと組合を創立、列車に積み込む荷役作業を請け負うことになった。

 本碑に名を連ねた数多の氏名から、その恩恵に与ろうとした人たちがいかに多かったかが窺われる。これらの浄財を出し合い、土地の寄付を受け、仲仕組創立を顕彰するとともに、総会を開催し、喜びあったことを後世に伝えるべく石碑を建立したのである。

 本石碑について、建立後長い年月流れる間に、そしてまた余り人目に触れることのない場所にあったためか、町民に忘れ去られるか、見逃されて来たのは、まことに残念なことである。

 交通の要衛、金津の歴史を物語る貴重な歴史的記念物であるので、先人たちが本石碑建立した意図をくみとり、顕彰保護するべきと提言したい。  印牧邦夫

579.碑文作者は富田久稼(ひさか)。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/6(土) 23:36
 鷗村とは誰か?調べてみました。旧金津町の名士に鷗村を号とする人物は存在するか、県内に存在するか、いずれも存在しません。全国に広げれば森鷗村(1831〜1907)がおります。栃木県出身の儒学者です。桜井鷗村(1872〜1929)、愛媛県出身の教育家、実業家です。しかし彼等は福井県との接点がありません。

 手掛かりを求めて行き着いた資料が「越前人物志」(福田源三郎著 明治43年発行)でした。此の著書には継体大王から始まり、明治中期まで活躍した越前人が記載されています。政治、学問、文化、産業、医学などあらゆる分野を網羅しております。

 そのなかで漢学者部門を調べてみました。該当する人物が一人いました。富田久稼です。天保7年(1836)生まれ、福井藩士。漢学者、福井藩校明道館教授。明治5年(1872)、福井県初の新聞「撮要新聞」を発行、福井県ジャーナリストの先駆者。明治12年(1879)明新中学校校長。没年は明治40年(1907)、享年72歳。彼は鷗波(おうは)の号を用いておりました。

 彼は多くの碑文を手掛けております。さらに鷗波の弟子に西脇呉石(ごせき)という人物がおりますが、呉石は書家で県内石碑の碑首(篆刻文字)の多くが彼の作品です。金津総持寺にある阿部精の寿碑は呉石が書いております。この石碑建立発起人の中に永岡太助、岡田清六郎の名前がありますが、彼等は「仲仕組創立総会之碑」に設立員として名を連ねております。

 付け加えるならば、同時代に久稼(鷗波)に匹敵する漢学者は県内には存在しないのです。碑文から漢学に精通した人物、といえば富田久稼(鷗波)しか考えられないのです。

 先ほど印牧先生から電話を頂き「私も富田久稼だと思う」と言われました。先生も調べられたそうです。意見が一致しました。

 以上から鷗村は富田久稼であるとの結論に至りました

578.「仲仕組創立総会之碑」碑文作者は杉田鶉山ではなかった 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/6(土) 5:43
「仲仕組創立総会之碑」の碑文解読は順調に進んでおります。碑文の論旨はすでに解読しており細部解読が残されているのですが、正確を期するには専門家の力を借りなければなりません。

 この石碑は仲仕組に関するあわら市の文化財という意味合いだけではなく明治初期、主要地域に鉄道網が敷設されたことにより物流の主導権が海運から陸運に劇的にシフトし、それが地方にも及んだことが記録されているという意味で貴重な交通史の資料でもあります。

 序文
 鉄道が敷設されたことにより物流が一変し、遠隔地から数多の旅客、物資が流れ込み寂れた僻地は繁華の町に変化することは祥(慶すべきこと)也と述べられています。

 中段
 同志六十有余名を糾合し仲仕組を創設し貨物運送に従事、遠近の集荷業務にあたるとしています。此の地方の有力者はこの文明の利器(鉄道)を応用し殖産興業に励むことが国家報恩の倫(道)であるとも説いています。
さらに人民は国力向上のために勤労の精神を発揮し勤労に励むことが大切であると鼓舞しています。

 末文
 石碑建立の目的は仲仕組結成に参加した同志たちの姓名を刻み、後世に伝えると記されています。

 以上が現段階で解読した概略です。

 漢詩

 鑿山架水 鐡路完成 飛烟気笛 瞬開車輞
 欲路開明 運物●貨 ●●日栄 屹一片石

 (現段階での私的解釈)
 峻山に隧道を鑿(さく)し大河に橋架し 鉄道を完成させた
 煙を飛ばし汽笛を鳴らして   瞬時に車両が走る
 文化開明の路を欲し 物●貨を運び  
 日々栄えるを祈念し(?) 石碑を建立す

 明治三十四年夏七月   鷗村(おうそん) 小史

 今まで碑文の作者は杉田定一と想定していたのですが、映像で石碑を解析したところ作者号は鶉村ではなく鷗村と刻まれており、(印牧那雄先生指摘)別人と判明。あらためて鷗村を号とした人物の特定作業に入っています。

 歴史を明らかにするためには試行錯誤を繰り返さなければなりません。誤りであれば最初から出直します。その労を惜しむことは許されません。それゆえ完成したときの達成感はすべての苦労を忘れさせます。

 碑文解読作業はあわら市の貴重な歴史遺産を発掘し、歴史的価値を創造することになります。多くの方々に協力をお願いしながら「金津の夜明け・・・北陸線開業への道のり」を完成させます。

 

  

576.事実でしょうね 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/6/4(木) 18:34
 事実ならその議員は公僕としての資格はない、辞職すべきでしょう。虚偽であれば貴方はあわら市議会への侮辱、名誉棄損罪の対象になります。確証のもてない噂話の類でも同様です。発言に責任を持てますか。



577.Re: 事実でしょうね
名前:通りすがり    日付:2015/6/5(金) 11:23
なかなかの内容の書込ですね。
本当であれば、号泣議員、維新女性議員クラスでは?

さて、タイトルの「事実でしょうね」とあるが、
本文は、否定されている?

当掲示板主であれば、議員経験者ですし、
よくご存知のはずでは?
知らなくても、現職とのコネクションはあるでしょう。

いきなり、罪ですよ、と煽らず、
確認されてはどうでしょう?主とも知り合いのようですし。

また、こちらの主のコメントにも期待しているのは、
自分だけでしょうか。

575.あわら市議会 返信  引用 
名前:どーも    日付:2015/6/4(木) 16:13
あわら市議会にはもっとヒドイ人がいますよ。
朝、視察のバスに乗った直後から酒を飲み出して、お昼にはしっかり出来上がり、視察先をキャンセルしてバスを降りて、競艇場に行ってしまうという話です。これが毎回繰り返されているようです。
税金を使って全国の競艇まわりをしているなんて、市民をバカにしていますよね。ほかの議員たちはよく黙っているものです。

574.少々意見が違いますが・・・ 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/5/31(日) 8:0
 今は常識と良識が求められる時代なのでしょうね。程度にもよりますが多少の寛容さも必要ではないでしょうか。あまり窮屈な社会はどうも・・・。

 いいじゃありませんか、大切なのは仕事ですよ、と言ったら駄目でしょうな。 

573.(untitled) 返信  引用 
名前:ビジネスマン    日付:2015/5/29(金) 11:56
視察の帰りだろうか、新幹線の中、
酒を飲んで、声の大きい議員連中がいたそうな。

酒を飲むなとは言わないが、公共の場でどうなのか。
情けない話である。

572.ユーカリの巨木 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/5/29(金) 10:11
 一昨日の石碑拓本採集現場でのこと、赤、黄色の実をたくさんつけた木がある。「グミの実ですよ」と印牧先生が言う。口に含むと熟れた赤い実は甘酸っぱく、黄色の実は未熟で不味い。

 子供の頃、野山で採集した記憶が甦った。栗、椎の実、アケビ、野イチゴ、柿などを手当たりしだい口にした。柿などは甘ければ当り、渋柿であれば外れで渋みで舌が麻痺したことを思い出す。鮮やかな色をした果実があり、口に含むととんでもない代物で思わず吐き出したこともあった。野道にはスカンポ(学名イタドリ)が群生しており、これは酸っぱいだけだったがよく口にした。

 グミの実を食べながら少々感傷に耽っていた。見慣れぬ巨木がある。高さは優に30メートルはあるでだろう。白い地肌で葉は細長い。その疑問を抱えたまま敷地の所有者Hさんのお宅に伺った。拓本採集のお礼を言うためである。巨木の名前をうかがうと、
「ユーカリの木です。三代前の御祖父ちゃんが植えたのですけど、あんなに大きくなって」と言われた。

 ユーカリは豪州固有の樹木との固定観念があったが、アジアの風土にも適合し育つとのことだった。成長が早くパルプの原料として、精油を採集するため日本でも植樹された時期があったそうである。その名残があの巨木である。

 あの辺りの川岸にバラがいっぱい咲いている。地域の人達が環境美化の為に取り組んでおられるのであろう。その先に竹田川が蛇行しながらゆったりと流れている。バラと竹田川、美しい風景である。「仲仕組創立総会之碑」はその近くにあるのだが雑木に覆われている。いずれ整備して市民の方々に見学していただけたらと思う。

 追伸
 今朝写真を撮るために石碑の前の雑木を伐採しました。道路から石碑が見学できます。場所は西田メガネ店、料亭若桜の裏、目印は白いユーカリの巨木、その真横。

571.「仲士組創立総会之碑」の歴史的価値 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/5/28(木) 22:31
 牧田さんのブログで紹介されたように昨日、印牧那雄先生のお骨折りで「仲士組創立総会之碑」の拓本が採取されました。印牧先生から拓本採取の話があったのは今月の18日頃でした。4月に先生を桑野遺跡にご案内したとき、途中で「仲士組創立総会之碑」に立ち寄った所、大変興味を持たれ是非拓本採集をしたいとの申し出がありました。

 実は以前私たちでも拓本採集を行ったのですが、碑首の篆刻(てんこく)文字の「仲士・・・」は採れたのですが、碑文は風化が進んでおり判読不能な状態でした。

 今回に期待をしてお願いした次第です。もちろん拓本はあわら市にも寄贈されました。昨晩先生から電話をいただき、「ご協力いただきありがとうございました」との丁寧なお礼をいただき、恐縮しました。

「碑首は鮮明に採れたのですが碑文については判読できる状態に採取できませんでした。誠に申し訳ない」と仰いました。

 現場に立ち会った方々ならおわかりいただけると思いますが、拓本採集のプロが技術を駆使されながら採取されたのです。これ以上の出来栄えは誰がやっても不可能でしょう。

「貴重な資料、大切に保存いたします。有難うございました」とお礼を申した所、「あの石碑は仲士の存在のみならず金津の交通史、北陸線開業により物流が河川から陸上に劇的に転換する分岐を示す貴重な歴史遺産です。これ以上風化劣化させないよう対策を講じて大切に保存して下さい」との助言をいただきました。

 碑文の解読は先送りされたのですが、方法はまだ残っております。碑文を眺めていると光線の角度で読める文字が微かに浮かび上がってくるのです。カメラで光線の角度を変えながら映像化すれば全文は無理としても碑文の全体像の解析は可能でしょう。いずれ協力者(カメラ愛好家)を募り挑戦します。

 なによりも石碑が貴重な歴史遺産であることを郷土の文化歴史を長年研究されてきた印牧先生が太鼓判を押されたことに関係者(佐川さん、牧田さん、吉村さんと私たち)は喜んでおります。今後も協力者を募り保存、解明に尽くしたいと思います。興味のある方、牧田さんが窓口になっておりますので申し出てください。

 

570.[自由に気ままに] がいちばん 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/5/25(月) 17:31
 麦秋の畑、早苗の田。初夏の風景の中、車を走らす。最初の目的地は足羽山麓にある名刹、臨済宗高照山瑞源寺(こうしょうざんずいげんじ)。福井藩中興の祖、松平吉品(よしのり)の菩提寺で萩寺として名高い。本堂、書院は福井城本丸御殿の居室を移築。庭園も江戸時代初期禅宗庭園の形式が色濃く残っており、重要文化財に指定されている。

 瑞源寺には松平吉品と母、高照院の墓がある。ちなみに高照山は孝心篤い吉品が母を偲んでつけた山号である。松平吉品を題材にした作品に取り掛かっており、先月この寺を訪れ御住職花房禅佑師(第15代住職)にお話を伺った。その際貴重な寺史「瑞源寺と松平吉品」を頂いた。

 詳細な資料を読ませていただいたのだが、確認したいことがあり再度訪れたのである。ご住職は庭の掃除をされていたのだが、手を休めて付き合ってくれた。「初めてですよ。そこまで読まれた方は」と仰っていただいたことに恐縮。ご住職は歴史に造詣が深いだけでなく音楽を含む文化活動にも熱心で、本堂でコンサート、書院で茶会、境内で蕎麦会、地域イベントなどの活動にも取り組んでおられる。会話を通して寺の歴史、文化遺産を守りぬくという強い決意が感じられた。名刹瑞源寺、松平吉品公、さらに彼に恥じない作品を仕上げなければとの思いを新たにした次第。

 その後、アオッサで開催された福井県のバラ愛好家が出来栄えを競う「バラ展」を見学。見事なバラを鑑賞していると妙齢のご婦人が近づいてきて作品の説明をしてくれた。これはこれで楽しい。触発され園芸店に直行し花の苗(サギ草を含む野花数種類)に鉢、土(腐葉土、鹿沼土)を購入。帰宅して移植する。8月には鉢上でサギが舞う姿を鑑賞できるであろう。

 サッカー(なでしこジャパン対ニュージランド)を観戦後、印牧那雄先生からいただいた「三国港町の名所旧跡と文化遺産」(印牧那雄著)を読む。この一冊に三国の文化遺産すべてが網羅されている貴重な著書である。本を読むにしたがい、先生の熱意が伝わる。

 自由に気持ちの赴くままに行動する。共感を同じくする先輩、識者、同輩、後輩との交流を大切にする。草花、樹木を眺め、野鳥の囀りを聞き、自然の風景に親しむ。それが楽しみであり、大切な時間を費やすに値することである。

 自由に気ままに、少なくても精神的には糸の切れた凧のような生き方を目指したい。

569.雉(キジ)が歩く道。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/5/3(日) 9:28
 トーリムパークに行く途中であった。目の前を雉がのんびりと歩いている。ブレーキを踏み、じっくり観察した。やや小さな雄の若鳥である。彼は自動車に気付いたが飛ぶでもなく、歩いて道を渡り、草むらに隠れた。

 昨年も見た。雉のコロニー(繁殖地)が近くにあるのだろう。雉だけではない、鼬(いたち)も狸も見た。もちろん蛇も・・・。

 蛇はどうもという方もおられるであろうが、私は蛇を見ると初夏を感じる。多くはシマ蛇で青大将は滅多に見かけない。まして蝮は平地では絶滅している。狩安山にでも登れば運が良ければ遭遇するかも知れないが、まず無理であろう。

 山が笑っている。山笑うというのは文学表現、春の季語である。山が緑に覆われ、木々が芽吹き、動物、鳥が活発に行動する侯を表現する。

 連休は遠出しない。いずれかの日には近くの野原、山を訪れ草花を鑑賞し、小動物、小鳥を観察しようと思う。

567.再々度、金津民さんへ 返信  引用 
名前:通りすがり人    日付:2015/4/30(木) 18:47
ちゃんとした認識さえして頂ければわかってもらえると思いますが…

一点目
そもそも金津町と芦原町だけの合併というのはおかしな話だったんですよ。最低でも三国町入れて3町合併が理想でしたけどね。
優遇されているという事については具体的な理由を書いてもらわないとまず納得なんて無理ですね。

二点目
新しい工業団地、企業誘致とは? って、勉強不足もいいとこじゃないですか? きちんと把握してから反論して下さい。企業誘致ではないですが、最近イオンがあわら市と提携して畑作耕作を始めたみたいですし。

三点目は
人口の多い少ないは大いに関係あります。それと、公職になくともあれだけの知名度がある人だったら間違いなく手法次第で有利に働きますよ。

四点目
寝た子を起こすのが、何故悪い?
あなたは争いごとを好む方ですか?収拾をつける手段を用意してから起こすのならわかりますがね。そんな方法ありますか?


せっかく、市長と議会との対立も和らいできたのに
今後旧金津町出身の議員に働きかけて、やんちゃを言いだす者も出てくるかもしれませんね。可能性は増しましたよ。
残念な事です。



568.Re: 再々度、金津民さんへ
名前:金津民    日付:2015/5/1(金) 1:25
一点目
そもそもおかしなんですよね?2町合併は。
現市長の政策
芦原・・・温泉街整備(観光重視、足湯、街並みなど)、北潟整備(風車、公園など)
金津・・・謎キューブ、謎吉崎館、サッカー場誘致失敗、消防署(ほぼ芦原)
優遇してませんか?

二点目
勉強不足?では、教えて頂けますか?
工業団地はどこに?誘致した、企業名は?
イオンは、誘致でないんでしょ?
新聞にも載って既知の内容ですが、雇用をどれだけ産みました?

三点目
だから、意見あいませんて。

四点目
大下氏は、広域合併が答えと言っていたじゃないないんですか?
貴方様がおっしゃっているように、そもそも、2町合併がおかしいんですよね?
争いは好んでいませんよ?少なくとも、勉強不足とか、
討論相手を否定するような事は言っていませんが。
もちろん、市長戦のことは別です。

前回も記載しましたが、
貴方様と私は、意見が合わないのです。
この話題を続けても、この掲示板に迷惑なので、これでやめにします。

566.印牧邦雄(かねまきくにお)先生 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/4/30(木) 16:22
 印牧那雄先生の主な著作は以下の通りです。
「福井県の歴史」「歴史事典福井県」「市町村で見る福井県の歴史」「歴史と人物」「わが町の歴史・福井」「明治。大正・昭和の郷土史」「三国近代文学館」「三国の史跡・名勝・文化財」「三国湊小史」

 その他にも「福井県史」「芦原町史」などを始めとして県内各地の地方史を編纂、監修されております。福井県の郷土史研究家にとっては大御所的な存在です。

 以前、3月初旬だったと記憶していますが、先生とお逢いした時、桑野遺跡からの出土品に非常に興味をお持ちでしたので、ご案内を約束しました。横垣のSさんが日程を調整され昨日がその日でした。発掘に関わった旧金津町職員、吉村氏の案内で史跡を訪ね、「あわらIKOSSA]で出土品を見学し、学芸員からの説明を受けました。

 昼食は牧田氏事務所、その後、懇談会を設けたという次第です。話の内容は多岐に渡りました。

 まず三国という地名ですが、諸説あるのですが先生は「三尾国(みおのくに)」から由来するのではないかと説明されました。出席者の一人、二面(ふたおもて)在住の寺下氏は二面の地名の由来は「みお」が「にお」になり「ふたおもて」に変化したと伝えられていると話されました。

 その他の説、その一つですが「三国」の三は数字の三ではなく、多数を意味する、つまり多くの村々が集まって形成された「郡」という意味ではないかとも説明されました。

 話は男大迹王(をほどのおおきみ・・継体天皇)に移り、これは金津東山の加納氏が詳しく、男大社迹王の館があったとされる丸岡町の女形谷(おながたに)についての議論が交わされました。

 その他にも、伊井応蓮寺と関わりの深い畑時能(はたときよし)について伊井在住の円道氏が説明されました。

 後半になり先生が御住職を務められる性海寺に祀られている韃靼漂流民(だったんひょうりゅうみん。三代将軍家光の時代)についても話題にあがり(韃靼漂流記の真実)興味深い話もお聞きしました。

 2時間半に及ぶ懇談でしたが、高齢にもかかわらず先生は精力的に話されました。終了後、私たちがお礼を申し上げたところ、先生は、
「充実した時間を過ごすことができ私こそお礼申し上げます」と言われ、一同恐縮した次第です。

 吉村氏と私で先生をご自宅までお送りしましたが、車中、先生から
「今度三国で蕎麦を楽しみながら会を開きましょう。お待ちしております」との言葉をいただきました。

 先生の博識に比べれば私たちは浅学菲才の未熟者すが、それでも先生は懇談を有意義に思われ、再会を希望されました。地域を超えて交流を図り、理解を深めあうことが大切だと再確認した一日でした。

564.再度、金津民さんへ 返信  引用 
名前:通りすがり人    日付:2015/4/29(水) 13:7
一点目は、要するにあなたも総合的に考えると芦原が優遇されているとは思っていないということでいいですね。

これはちょっと違うのことですが合併の時に、坂井市みたいに住居表示をあわら市金津町花乃杜○丁目とかあわら市芦原町温泉○丁目にすれば住民感情もかなり和らいだのではないかなとは思っています。


二点目ですが、迷いという言葉を使ったのは私で市長から出た言葉ではありません。お間違えなく。
企業誘致のことでも初代市長の継承ではあるかもしれませんが、新しく工業団地の造成もしましたし、企業誘致もちゃんとしています。

それと、芦原湯の町駅前の大きな空き地となっていた場所はかなり以前からどのようにしたらいいか議会でも議論がなされたことです。さらに、芸妓組合の建物が火事にあっていましたし、ある理由であまり適当ではない場所に建て替えられてましたからね。だから、そういう意味でもあの場所に改めて建設されたことはとてもいいことです。さらに、藤野厳九郎記念館の移転は、今中国の方の日本への買い物旅行者が急増しています。今後その傾向が観光にも向けられた場合、とても有効な事となるでしょう。PRの仕方にもよりますが、最近は外国人の観光者が増えていますからね。

改めて言いますが、金津の事も踏まえてちゃんとしたビジョンはもっていたと思いますよ。だって、金津の出身の議員さんが過半数いたにも関わらず議会でその予算がちゃんと通ったのですから。違いますか?

三点目は人口比率で考えた場合です。
大下氏は区長を歴任し昨年にもやっています。公的な大きな役職は持っていなかったとしても、議員を一期やってますし二校存続運動では中心的な存在でした。他にも色んな立場にあったり、旧金津町においてはかなりの知名度です。その彼が、旧町対立を争点にしたならば圧倒的に有利になるはずでしたよ。

四点目はよく意味がわかりませんね。

五点目は、確かに芦原・金津両方の損失が大きいと私も思いますが、今後は旧金津での公共事業等が多くなると思いますが、旧金津町民の旧芦原町出身の市長に対しての風当たりが強くなるのでは思っています。今回のおかしな争点づくりで、今までは案外スムースにいけたことがかなり困難になるのではないかと思いますね。種々の用地交渉とか大変だと思いますよ。

六点目は、彼が首長二度目の挑戦であるということ、議員を一期でやめた事(これはご自身から身を引いたようです。あまりにも稚拙な議会に彼のいる場所ではないと考えたのでしょう)、それと、今回の選挙戦術からです。

他に何か言いたいことはありますか?
問題があるとしたら、多くの議員に向けたらどうですか?



565.Re: 再度、金津民さんへ
名前:金津民    日付:2015/4/29(水) 18:18
平行線を辿りそうでが・・・

一点目
558でも書きましたが、
現市長になってからは、優遇されていると思います。
ただ、あわら市◯◯町という内容は、同意です。
ただし、理想は、坂井市でしたね。

二点目
新しい工業団地、企業誘致とは?
工業団地で思い浮かぶのは、伊井地区ですが、
あれは、金津の会社が、同じ金津に工場集約しただけでは?
実際近くを通ってみても、団地の様子は・・・見ててみてください。
あわら市に対して、どれほどメリットがあるのか、疑問がありますね。
企業誘致が全く思い浮かびませんが、どの企業のことでしょう?

合併、二校問題の時もそうでしたけど、
市のことを考えている議員がどれほどいるのか。
金津、芦原出身含め。
個人的な思いは、この期間の議員が早く一新されれば良いと考えています。世代・人が変われば、このような思いも無くなるかもしれませんね。

三点目
これに関しては、意見が合いませんね。

四点目
寝た子を起こすのが、何が悪いのか。ということです。
そもそも、火種がないところに、と思います。
これも、意見が合うことはないでしょう。

五点目
同意です。

六点目
同意はできませんが、そういう見方・考えもあるのですね。


通りすがり人様も、この街を良くしたいという一人なのでしょう。
いつか、お互いが納得できる市長になるといいですね。


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