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声の広場

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623.堀江一族  返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/1/14(木) 23:48
 堀江一族の史料を集めていますが、史料を読めば読むほど袋小路に入り込んだ感がします。伝承と史実は異なることはよくあることですが、加えて残されている史料そのものものが複雑に入り組んでおり、判断に迷うことが多々あります。

 それでも史料を読む。基本的なことですが、それ以外に道はなく、根気よく読み続けます。伝承を紹介するだけではなく、史実にそって記したいと思っています。いずれにしても時間を要することになりそうです。

 

622.堀江一族 返信  引用 
名前:河合玉堂    日付:2016/1/11(月) 10:37
とんぼさんの郷土史研究また始まりましたね。大変楽しみです、続編を期待してます。

621.堀江一族 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/1/9(土) 20:24
 戦国時代、坂北郡で権勢を誇った堀江氏の祖は中臣鎌足(藤原鎌足)といわれています。鎌足には定恵(じょうけい)、不比等(ふひと)の二人の男子がいました。定恵は23歳で夭折し、宗家を不比等が継ぎました。不比等には武智麻呂(たけちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまあい)、麻呂(まろ)の男子がおり、それぞれが南家、北家、式家、京家を興しました。いわゆる藤原四家(しけ)と呼ばれ、後に宮廷政治を牛耳ります。


 北家の房前五男に魚名(うおな)がいます。彼が北家傍流である魚名流を興しました。魚名流六代に藤原利仁(としひと)が現れます。芥川龍之介「芋粥」(原本は今昔物語)に登場する武人です。

 利仁末裔から斉藤氏、加藤氏、後藤氏、富樫氏、堀氏、林氏、結城氏などが枝分かれ藤原武門としての地位を確立します。いわば利仁が藤原武門の祖といえるでしょう。
※ 日本の三大武門・・藤原。源氏。平氏。

 利仁の次男が藤原叙用(のぶもち)で叙用が斎宮寮(さいぐうりょう。伊勢神宮運営に携わる)長官に任じられ斉藤姓を名乗りました。斉藤氏の始祖です。叙用は越前押領使(おうりょうし。越前の軍事警察を担う長官)となり、その孫、伊傳(よしただ)が坂北郡堀江庄堀江郷に土着しました。

 伊傳は藤原氏もしくは斉藤氏を名乗っていましたが、いつの代からか不明ですが、末裔が郷名にちなみ堀江氏と称しました。その経緯から伊傳が越前堀江氏の祖とされています。その後、堀江宗家の館が本荘に築かれ、代々の当主は本荘に居住し河口庄(かわぐちしょう)、坪江庄を支配しました。現在の坂井郡全域及び福井市の一部が含まれます。

 以後、堀江氏は越前で勢力を強め、同じく越前を勢力とする朝倉氏と対立しました。堀江氏の勢力最盛期は堀江石見守利真(いわみのかみとしざね)の時代でした。その利真の前にたちはだかったのが朝倉英林孝景(えいりんたかかげ。敏景とも称す)でした。

 越前の覇権をめぐり両者が争います。応仁の乱の引き金になった長禄二年(1458)に勃発した長禄合戦(ちょうろくかっせん。1458〜59)は堀江利真と朝倉孝景との最後の決戦でした。

 きっかけは越前守護職(しゅごしき。領主)斯波氏(しばし)と守護代(しゅごだい。代官)甲斐氏(かいし)との権力闘争でした。堀江利真は斯波氏の大将として、朝倉孝景は甲斐氏の大将として戦ったのです。

 当初、利真が率いる斯波方が優勢でしたが、足利将軍・義政が甲斐氏に味方し、周辺の国人(こくじん。土着豪族)を動員したため形勢が逆転、和田庄(福井市)の戦で利真以下、宗家堀江氏の主だった武将はことごとく討ち死、宗家は滅亡しました(1459年8月)。

 庶家の本庄堀江氏、細呂宣(ほそろぎ)堀江氏は宗家と離れ孝景に与力して存続、推定ですが、本庄堀江氏が宗家を継承し、朝倉氏家臣として坂北の守備にあたります。

 長禄合戦に勝利した孝景は斯波氏と主筋である甲斐氏を越前から追放し、領地を乗っ取り新たな支配者となりました。戦国下剋上の魁(さきがけ)でした。

 堀江一族は、朝倉氏に従い斯波氏、甲斐氏の残党と戦い、国境の領主として越前に侵攻する加賀一揆衆と戦いました。

 一族で特筆すべき武将は堀江景用(かげもち)です。彼にはさまざまな伝説があります。大蛇(龍)伝説は有名ですが(彼の母は美しい女性に化身した大蛇)、もちろんそのようなことはないのですが、彼の母と出生は謎に包まれています。

 その景用は爽やかな若武者に成長し、武勇に優れ数々の合戦で手柄をたてました。また和歌にも長じ、当代随一の連歌師・宗祇((そうぎ)に才能を認められ、彼と共に上洛し都人から称賛されたと「朝倉始末記」で記されています。現代風に述べるならビジュアル系ヒーローです。

 堀江氏は朝倉家臣団の中核となり、当主と姻戚関係を結ぶようになります。このことから両者の関係は良好のように見えますが、堀江一族と朝倉一族は以前は旧敵の間柄、朝倉氏は堀江氏の台頭を警戒していました。それゆえ姻戚関係を結び、一族に組み込もうとしたのです。

 やがて朝倉氏と堀江氏の間に亀裂が生じます。景忠(かげただ)の代に至って、秘かに謀反の動きを見せました。情報を得た朝倉当主・義景は先手を打って、金津の溝江長逸(ながやす)に命じて堀江氏を攻めさせています(仏徳寺合戦)。

 景忠は一族を率いて加賀へ亡命し、此の地で一向一揆勢(本願寺勢)と同盟を結び、越前侵攻の機会を窺っていました。朝倉氏滅亡の後、一揆勢と共に金津に攻め入り、溝江一族を滅亡に追い込みました。景忠は本願寺一揆勢の越前支配で主力武将として活躍します。

 ですが、織田信長の越前侵攻の際、三国の豪商森田三郎左衛門(さぶろうざえもん)の仲介により織田方と密約を結びました。一揆勢を裏切り織田方に加勢する密約でした。

 天正3年(1575)8月15日、織田勢が敦賀より侵攻し、一揆勢は杉津口(すいづくち。現敦賀市杉津)に砦を築き、越前侵攻を防ごうとしました。その時、景忠勢は砦の内側から一揆勢の背後を攻めたため、総崩れ、一瞬のうち勝敗は決したのです。

 その功により坂北の所領を安堵されたのですが、恩賞に不満を漏らし、信長の逆鱗に触れて三国滝谷寺で刺客によって殺害されました。越前堀江氏の断絶です。(1576年)

 以上が、越前に残る堀江一族の通説です。しかし足利市で堀江家系譜が残されていました。それによれば景忠の最後は通説と大きく異なります。 景忠は信長の刺客から逃れていました。

 越前を去った景忠は滝川一益(かずます)の家臣となり関東に下り、その後小田原攻めで活躍しますが、手傷を負い月谷村(つきやむら。現足利市月谷町)で天正16年正月4日(1588年1月31日)に死去します。享年58歳。

 景忠の長子・景信(かげのぶ)が月谷村に住し、末裔が明治に至るまで代々名主を勤めていました。家系は継承され現在に至っています。(足利堀江家略系譜書より)

 堀江氏末裔は景忠の終焉の地、足利市に現存しています。もちろんあわら市にも、郡内にも末裔はいます。

 文字通り堀江一族の歴史は波乱万丈ですが、一族発祥の地、あわら市で系統立てて語られる機会がなく現在に至っています。残念なことです。

 尚、堀江一族については中西仲一氏(平成10年死去)が優れた研究書「堀江一族」を発表されています。(平成12年度、紺屋ちずる氏編集、中西賢治氏発行)
 
 堀江一族の菩提寺だったのが中番の曹洞宗「大澤山龍雲禅寺」です。『越前龍雲寺史』(龍雲寺住職・伊藤俊彦氏編集)のなかに堀江氏関係古文書が収録されています。
 その他にも「朝倉始末記」で堀江一族が語られています。
(いずれも芦原、金津図書館で借りられます)

 先人に倣い、参考として私なりの「堀江一族」をいずれ発表したいと思っています。とりわけ伝説のヒーロー堀江景用出生の謎に迫ります。

620.新連載 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/29(火) 11:32
新連載「須江の恋」を連載します。史実に基づき福居藩4代藩主・松平光通(みつみち)、5代藩主・昌親(まさちか)、6代藩主・綱昌(つなまさ)、7代藩主・吉品(よしのり)の激動期、彼等と時代に翻弄された国姫、万姫の悲劇、高照院(こうしょういん)の悲しみを昌親の侍女須江を登場させ(架空の人物)、彼女の目を通して描きます。

 第一話は年内に「トンボ作品集」に掲載。完結は2月末予定。来年は「須江の恋」を含めて4作品を上梓予定。あくまでも目標ですが・・・。


「声の広場で」では郷土の歴史、風景、雑感、魅力ある方々、愉快な方々との交友録などを掲載します。ときに市政を含めて政治、世相批判も展開したいと思います。興味のない方は無視してください。


 元々が怠惰な人間で、自分に鞭を入れるために敢えてノルマを宣言しただけのことです。

 あわら市議会の現状については「声の広場」NO600、601、603、611で述べた通りですが、深刻なのはほとんどの議員が問題意識を有さず、市民も舌打ちしながらも諦めていることです。

 これではいつまでたっても(市政を糺す)議会としての役割を期待できません。傲慢、怠慢、無気力を一掃、活力のある議会にするため、少なくても次の議会選挙ではより相応しい人物を選ぶためにも議会、議員を追及、併せて市民の喚起を促したいと思っております。

619.読書 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/23(水) 7:23
 年賀状の季節となり、頭が痛い。悪筆で宛名も文面もPCに頼りきっていたのだが味気なく、失礼にもなる。というわけでまず、宛名は拙い金釘流文字ではあるが、心をこめて書いた。文面も一言、二言お礼の言葉を添えた。

 お世話になった恩人には全文自筆で近況を報告するようにしている。悪筆、加えて文章が苦手な私にとって大変な作業で、ここ三日ほどはそれに集中している。だが集中力が持続しない。気分転換が必要である。図書館で詩集を借りてきた。小説は読解力が低下しているから読み切ることができない。句集、詩集なら気軽に断片的に読むことができるから私には適している。気分転換にも良い。

「屈原」「李白」「杜甫」の詩撰集と「評伝 種田山頭火」を選んだ。何故それらか、私なりの理由はあるのだが他人に説明することではない。要は無性に読みたくなったというだけである。

 年賀状書きに飽きたら詩撰集に目を向ける、また作業にかかる。それの繰り返しである。漢詩はほとんど理解できず眺めるだけだが・・・、それでも良い。なんとか年賀状は間に合いそうだ。

 書き終えたら天気が良ければ少々遠出して冬景色を楽しむ、悪ければFMラジオを聞きながらウイスキーを飲み、詩撰集をかってきままに目を通す、時々猫と戯れながら。いずれにしても年末年始をつまらぬテレビ番組に付き合うことはない。

618.(untitled) 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/20(日) 14:55
今日の牧田さんのブログを見て、いかにも彼らしいと苦笑した。他の方も写真を撮られていましたので、近日中にお借りして紹介します。

この宝剣の出土によって剱ヶ岳の地名が付けられました。市民必見の文化財です。

617.伝説の宝剣 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/19(土) 23:44
 今日、有志一同(8名)が丸岡の国神神社を訪ねた。古くは「くにつかみ」と呼ばれたこの神社は、男大迹王(をほどのおおきみ)と倭媛(わひめ)の間の第二子である椀子皇子(まろこおうじ)が生まれた乎迦(おか。岡)にできた神明宮が起源とされている。

 社伝によると、椀子皇子の降誕地(こうたんち)磨留古乎迦(まるこのおか)に皇子の胞衣(えな)を埋めて、延喜式神名帳にのる国神神社神明宮とした。皇子の名は地名に由来するという。祭神は椀子皇子。

 乎迦の周囲にできた磨留古乎迦集落が里丸岡村で、神社に奉仕して春秋の祭礼を行ってきた。天正4年(1676)に柴田勝豊が豊原から城を移すにあたり、神社を今の境内に建てた。そして城下町をつくるために、里丸岡村を東里と西里に二分した。勝豊は改めて社領を寄進した。神木の「たぶの木」はこの時既にかなりの大きさになっていたであろう。

 その後の城主(本多氏、有馬氏)も深く崇拝した。本多重昭は寛文年中(1670年頃)に天国宝剣(あまのくにほうけん)を奉納した。象嵌(ぞうがん)入りの鞘(さや)で、鍔(つば)は滅金(めっき)、鞘索(さやつな)は檟七宝(夏七宝・・かななほう・・網目模様の吉祥柄)と伝えられている。(丸岡町史より)

※磨留古乎迦・・・丸岡の古名。※胞衣・・後産として体外に排出される胎盤など。 柴田勝豊・・・柴田勝家の甥。 天国宝剣・・・NO615で記述。

 天国宝剣は本多重昭の家臣によって剱蓋岳(けんがいだけ。後に剱ヶ岳)で発掘され重昭に献上された。伝説では男大迹王が此地を去られるとき、宝剣と蓋(がい。冠)を天嶺(剱ヶ岳)に遺され、安寧(あんねい)を祈願されたと伝えられている。

 その故事にちなみ、時代としては奈良平安以降に、里人が剱ヶ岳のいずれかの神社に奉納したものであろう。本物である。根拠とするのは、その造りである。それは私たちが想像する剣とはまったく異なる。

 柄、鍔の細工、鞘の象嵌、鞘紐も見事である。しかし肝心の刀身は剣というには程遠く、小刀とさえいえない。むしろ大ぶりな小柄(こづか)と説明した方が良いだろう。皆さんにはやや長めのペパーナイフを想像していただきたい。それが宝剣とされてきた。繊細ではあるが拍子抜けするほどの小振りな造りである。それゆえ本物だと考える。

 偽物なら、伝説の宝剣らしく大げさで物々しい造りにするであろう。

 いずれにしても「百聞は一見に如かず」で私たちは伝説の宝剣を時空を超えて目にする貴重な体験を得ることができた。感謝したい。

 神社の宝物殿には宝剣の他にも、「閻浮壇金千手観音(えんぶだごんせんじゅかんのん)」「白山曼陀羅画」「刀剣・越前国下坂貞次作」「刀剣・陸奥守天道作」「能面七面」
「有馬永純(ながすみ)公黒印の古文書三通」等が収蔵されている。それらもじっくり拝観した。

※閻浮壇金・・・仏教の経典でしばしば見られる想像上の金の名称。紫を帯びた赤黄色で金の中でも最も高貴とされる。閻浮壇金千手観音は本多家の守護観音。社史によれば貞観4年(じょうがん。862年)唐から持たされた。
※白山曼陀羅画・・・室町時代の作。
※下坂貞次・・・1624〜1676年
※陸奥守天道・・・陸奥守吉行(1650〜1710年)と同一人物か?
※能面七面・・・慶長10年(1605)作
※有馬永純・・・有馬丸岡藩初代藩主・有馬清純(きよすみ。1644〜1708年)の前名。

 国神神社は昭和23年6月28日、丸岡町を震源地とする福井大震災で社殿、樹木など総てが消失、灰燼(はいじん)に帰したのだが、社宝は氏子によって取り出され、守られた。

 丸岡町のみならず、あわら市にとっても貴重な歴史資産が守られたことに対し氏子の方々に感謝したい。これらの宝物は年に一度、10月16日に一般公開されると宮司さんよりお聞きした。

 今回、ありがたことに写真撮影も許可された。従来宝剣の写真はモノクロであった。「剱岳村史」に掲載されている写真もモノクロである。カラー写真を目にされた方はほとんどいないであろう。

 牧田氏も写真を撮られた。明日のブログで公開されるであろう。カラー写真、伝説の宝剣の実写を期待していただきたい。
 

616.歴史の教訓 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/17(木) 9:31
 明暦2年(1656年)に燈明寺古戦場(現福井市灯明寺)で新田義貞公の筋兜が発見され、福居藩4代藩主松平光通(みつみち。20歳)に献上され、ほぼ同時期に剣蓋岳(剣ヶ岳)で男大迹王(おほどのおおきみ)縁の宝剣が発掘され本多丸岡藩3代藩主本多重昭(しげあき)に献上された。これは偶然ではないとは記述NO615で説明した通りである。

 慶長20年5月8日(1615年6月4日)、大阪城炎上、秀頼、淀君が自刃し豊臣家が滅亡した。乱世の終焉から41年後、兜が発見され、その前後に宝剣が発掘された。戦乱を生き抜いた武将のほとんどが鬼籍に入り武断政治から文治時代に移行した。盤石の徳川体制、戦乱のない泰平の世がいつまでも続くと誰しもが思った。光通も重昭も毫も疑わなかった。

 現代日本で例えるなら戦後41年(昭和61年)、バブルがはじける寸前であったが、多くの日本人がバブルに狂奔していた。やがて破綻を迎える昭和末期と重なる。

 光通もそうであった。若干20歳、前年には才色を兼ね備えていた国姫を娶った。だが新田義貞兜を手に入れた15年後の寛文11年3月28日(1671年5月7日)、その国姫が自決した。

 国姫は和歌を詠み、類希な美貌の持ち主であった。都人(公家)は彼女を今小町(小野小町)と称賛した。彼女の祖母は二代将軍徳川秀忠の次女であり、松平忠直正室の天崇院(てんすういん)勝姫である。

 光通と国姫の夫婦仲は睦まじく娘二人を得たが、世嗣(せし)となる男子には恵まれなかった。だが彼には隠し子権蔵(ごんぞう)がいた。

 権蔵の母は郷士・松原治平の娘で鷹狩りの折、夜伽に差し出された「おさん」である。権蔵が生まれたのは婚儀の翌年、国姫にも天崇院にも伏せられていた。

「おさん」は身籠ると家臣である片桐氏の養女となり、「御三の方」として権蔵を御泉水屋敷(現養浩館)で秘かに出産し、坂井郡荒谷村(現福井市荒谷)で養育していた。

 世嗣不在の福居藩で権蔵の存在が公にされた。国姫は悲しみに打ちひしがれたが権蔵を受け入れようとした。だが激怒した天崇院は権蔵を認めようとはせず、世嗣はあくまでも国姫が生む男子と光通に迫り誓約させた。祖母の介入で夫婦の仲は破綻し、男子を得ることなく35歳になった国姫は絶望し、辞世を残し自らの命を絶った。

 よきことをきわめつくして よきに今歸るうれしきけふの暮哉

 その3年後の延宝2年3月24日(1674年4月29日)、光通は妻を追うように、徳川家が忌み嫌う妖刀村正で自刃した。以後福居藩は混乱し、貞享(じょうきょう)3年(1686年)3月、50万石から25万石に半知処分を受けた。

注)権蔵は後の松平直堅(なおかた)で、越前松平家系糸魚川藩の歴代藩主は彼の血統。幕末、この家系から松平直廉(なおきよ)が出る。彼が安政の大獄で隠居を強いられた松平春嶽の養子となり、越前福井藩17代藩主(最後の藩主)となった松平茂昭(もちあき)である。

 本多重昭は延宝4年1月14日(1676年2月27日)に死去し(享年43)、嫡男重益(しげます。13歳)が跡を継いだ。重益は典型的な暗君で酒色に溺れた。藩内では彼を廃し、弟重信(しげのぶ)の擁立を図る家臣と重益派の家臣が対立した。お家騒動が勃発したのである。重信派が優勢だったが肝心の重信が急逝した。重益が藩主の座に留まり、憎しみをかった重信派重臣は投獄され飢死に追い込まれた。逃れた者も斬殺された。

 重益派が実権を握ったのだが、藩主の享楽は止まることなく、重臣たちも藩政を私した。藩政は乱れ領民は困窮した。これが幕府の知るところとなり、元禄8年(1695年)、重臣たちは切腹、追放された。重益も追放の上、謹慎処分。本多丸岡藩は改易、滅亡した。糸魚川藩の有馬清純(きよすみ)が丸岡に入った。有馬丸岡藩の誕生である。

 福居藩半知処分から9年後である。

注)有馬清純が丸岡藩に移封後、糸魚川藩は廃藩となり一時天領となったが、松平直堅の嫡男直知(なおとも)の養子直之(なおゆき)が再藩し、越前松平系糸魚川藩の藩祖となった。

 光通が兜を献上されたのも重昭が宝剣を献上されたのも彼等の絶頂期であった。大阪の陣から41年、泰平の時代に大名たちは宝物発掘を競っていた。現代日本人がバブルに酔いしれ株、不動産、ゴルフ会員権、書画骨董等を投機対象として血眼になっていた昭和60年前後と酷似している。

 第二次大戦も70年も前のことである。バブルもその破綻も経験した日本人だが、無謀な戦争に突入した経緯、悲惨な戦争を語る人達は極めて少なくなった。

 戦争を知らない世代がほとんどである。私たちは戦争の残酷さ、本質を知らない。にもかかわらず世界の現実も歴史も直視せず、享楽に興じ、価値判断を経済的価値に求め、虚構にうつつを抜かしている。

 光通も重昭も待ち受ける我が運命、我が子の運命を想像だにしていなかったに違いない。迫りつつある危険、待ち受ける運命を誰が知り得るだろうか。

 それは私たちも同じである。確実に危険な時代に向い、自らが危険な状況をつくろうとしている。それでも国民の大多数は危機から目をそらそうとしている。
 

615.剱岳伝説の宝刀 「天国宝剣(あまのくにほうけん)」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/16(水) 19:10
剱岳村は男大迹王(おほどのおおきみ。継体大王)と縁(ゆかり)が深い。この村からほど近い坪江村坪江の地は男大迹王が越前平野治水の際に住まわれた御遺跡として伝えられて居り、同区内の式内郷社(しきないごうしゃ)横山神社は王を祭神とする古社である。

 横山神社の社記によれば、そのかみ(昔)、此の地は坪ヶ瀬と呼ばれ、王は湖頭の小丘に宮居(みやい)されて自ら治水を督励なされたという。今同区の西方の山麓地に「門の前」「雀ヶ岡」(鎮めが岡の転訛したものか)「菰谷(まこもだに)」(椀子王の谷の転訛か)「神奈備山(かんなびやま)」「丸山」等の地名があり、付近一帯は古来土器の包含地(ほうがんち。出土地)として知られ、またワンカシ山古墳を始め数個の古墳が散在している。ワンカシ山は陪塚(ばいちょう。小型の古墳)を有する前方古墳として有名であり、昔から椀子王(まろこおう)の古墳だと伝えられている。

※式内郷社・・・式内社とは延長5年(927年)に編纂された「延喜式」に記録された神社で、郷社は明治4年(1871年)、太政官布告(だじょうかんふこく)で定められた社格の一つ。郷社は府県社に次ぐ社格に位付けされた郷里の産土神(うぶすながみ)で、その地方で崇拝される中心的神社。村社よりも格上。

※男大迹王・・・生年、没年は450〜531年と伝えられている。
※椀子王・・・男大迹王と三尾の堅穢(けんわい?)の娘・倭媛(わひめ)の間に生まれた第二皇子。

(中略)越前中央部では福井の足羽山、東北部では本村の剱ヶ岳に登られて遙かに地勢を相せられ、遂に三国の水門口を開鑿(かいさく。運河にて開く)することを決意されたと伝えられている。

 たまたま治水の大業中(たいぎょうちゅう)に武烈天皇(ぶれつてんのう)が崩御なされ(507年)、継嗣(けいし)がなかったので、大伴金村(おおとものかなむら)等の議により迎えられ都に上がり皇位につかれた。

 時に王は五十有八才にて治水の業未だ半ばであったので、後事一切を椀子王に託して長年労苦を共にせられた郷民に別れを告げ、越の山河に名残を惜しまれつつ都に上がられた。

 この時、御出立に当り常に斉持(さいじ。所持)して居られた宝剣と霊蓋(れいがい。冠)とを東の天嶺に納めさせて、永く国土の安泰と国民の幸福を祈念せられた。それ以来この天嶺を剣蓋の二字をとって剣蓋岳(けんがいだけ)と呼ぶようになったという。

 後世、正保年間に丸岡の本多飛騨守藩中の者が之を聞き、秘かにかの宝剱を掘り出して「天国の宝剱」と号して飛騨守に進めたところ、飛騨守はかかる霊宝は私すべきではないとて国神神社に奉納した。剱は今も同社の宝物として伝えられているが、その後この山を剱ヶ岳と呼ぶようになったという。又王が嘗て(かって)本村後山の二色滝の景を探勝されたとの伝説もある。(剱岳村史より)

※本多飛騨守・・・本多丸岡藩三代藩主本多重昭(ほんだしげあき。1634〜1676。藩主就任は1652年より)
※天国宝剣・・・天国(あまのくに)は奈良時代、または平安時代に活動したとされる伝説の刀工。またはその作品。天国は日本刀剣の祖とされるが、実在の人物かどうかは不明とされている。

 天国宝剣はおそらく継体天皇、椀子皇子を祀るために、故事にちなみ剱岳の神社に奉納された祭事のための剣か、もしくは椀子王の墳墓(古墳)に副葬された剣と思われる。いずれにしても時代は下り、刀工天国が刀作をおこなった奈良平安時代以降であるが年代は特定できない。

 その宝剣を江戸時代の初期、本多重昭の家臣が秘かに発掘し、藩主から国神神社に奉納されたのが経緯であろう。私の推測に過ぎないが・・・。

(注 江戸時代の明暦2年(1656年)、燈明時古戦場から象嵌(ぞうがん)が施された筋兜(すじかぶと)が掘り出され、福居藩4代藩主松平光通(みつみち)に献上された。兜は福井藩軍法師範が新田義貞着用の兜と鑑定し、以後松平家に保管されるようになった。光通は兜が発見された場所に「暦応(りゃくおう)元年閏7月2日(1338年8月17日)新田義貞戦死此所」の石碑を建立し、義貞公を顕彰した。新田塚地名の由来である。

 剣蓋岳から宝剣が発掘された時期とほぼ一致する。偶然ではなく、各藩が威信を高めるために競って藩内の史跡とその証となる宝物の発掘に力を入れていたのであろう。「新田義貞着用兜」は越前松平家の家宝となり、後に新田義貞公を祭神とする藤島神社に奉納され、「天国宝剣」は椀子王を祭神とする国神神社に奉納された)

 現在重要文化財に指定され、国神神社の社宝である「宝剣」は公開されていない。年に一度、10月16日のみ公開される。

 剱岳のみならずあわら市の古代史を探るためにも是非とも伝説の「天国宝剣」を拝見したい。ということで国神神社に拝観申請したところ、許可された。現在10名ほどが拝観することになっている。せっかくの機会であり、故郷史に興味をお持ちの方の参加も募りたい。

 詳細は牧田氏に問い合わせください。(TEL 090・1635・5710)

614.年末ジャンボ宝くじ  返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/12/2(水) 23:21
 年末恒例の歳末ジャンボ宝くじ。テレビCMでこれでもかと流されている。?億円を夢見て、私も一昨年までは10枚ほど毎年購入していた。結果は毎年300円。連番で10枚購入すれば必ず300円は戻る。しょせんは夢のまた夢、夢の代償が3000円と思うようにしていたのだが・・・。

 ところで宝くじを含めてギャンブルの配当率がどのくらいか御存知だろうか、調べてみた。

宝くじ    46・5%    ロト6 46・5%   サッカーくじ  50%
パチスロ  71・4%    競馬  75%     パチンコ    75%

言葉は悪いがピンハネ率は宝くじが53・5%、サッカーくじが50%、パチスロは28・6%、競馬(競輪、競艇を含む)25%、パチンコも25%である。

「財団法人日本宝くじ協会」の説明によれば、
宝くじは収益の40・3%が全国都道府県及び、20指定都市(札幌、仙台、さいたま、千葉、横浜、川崎、相模原、新潟、静岡、浜松、名古屋、京都、大阪、堺、神戸、岡山、広島、北九州、福岡、熊本)に分配されるとのことである。

 11・3%が印刷費・販売手数料、広報費が1・3%で、残りの46・5%が配当金として購入者に還元される。(「財団法人日本宝くじ協会」公式サイトより)わずか46・5%である。

 宝くじの年間売り上げは約1兆円。収益は4030億円。この数字は国内企業では伊藤忠商事の収益4185億円に次ぐ。ちなみに伊藤忠商事は日本企業収益高順位で見れば16位である。
※ 収益高上位16社 トヨタ ソフトバンク NTT ホンダ KDDI 日産 JTT NTTドコモ 国際石油開発帝国 三菱商事 日立 ブリジストン 新日鉄住金 三井物産 JR東海 伊藤忠商事 
 
 富士重工(17位。3936億円)、キャノン(18位。3832億円)、デンソー(19位。3719億円)、JR東日本(20位。3620億円)は収益金で比較すれば「財団法人日本宝くじ協会」に及ばない。※数字は日本経済新聞より

 それほど莫大な収益金が「財団法人日本宝くじ協会」に入る。それらが理事長 1名 常務理事 1名 理事 5名 監事 1名 評議員 10名によって運営されている。実際は数名に権限が集中しているのであろう。彼等のほとんどは天下り、金融機関、地方自治体からの出向である

 収益金の多くが各種事業に分配されているが、その基準は公式ホームページを読んでもわかりにくい。

 使途が適正であるか、役員報酬が適正であるかメスが入ったことはない。公に議論されたこともないだろう。資料ではわからないことが多すぎる。

 はっきりしていることは宝くじを購入した時点で投資金額は46・5%に減じる(3000円なら1395円)という事実だけだ。

 夢を追い、宝くじ売り場に殺到する人たちはこの事実を知っているのであろうか。

 資料を読んでから私は宝くじを購入していない。   

613.「仲仕創立紀念総会之碑」講演会、御礼申し上げます。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/11/23(月) 22:4
 去る21日の「仲仕組創立総会紀念之碑」講演会は牧田さんがブログで紹介されたように盛況でした。会場のスペースから参加者30名と制限されたのですが、来場者は記帳された方が50名いらっしゃいました。他に資料を申し込まれた方もおられ、念のためにと用意した60部のほとんどが捌けました。

 ご来場された方々(資料を求められた方々)、ありがとうございます。会場が手狭になり机が用意出来ずご不便をおかけした事、お詫び申し上げます。

 正直なところ、これほど多くの方々が御来場されるとは思いませんでした。郷土資料館のスタッフの方々も大変御苦労されたことと思います。ありがとうござました。

 講演は意気込みだけが空回りし、反省すべきことが多々あり、皆様のご期待に添えなかったことと申訳なく思っております。それにもかかわらず、アンケートには温情あるお言葉があり、未熟さを反省すると同時に、今後の糧といたします。

 もとより、これほどの多くの方が御来場されたのは私の力ではありません。スタッフの方々は広報活動に汗を流されました。牧田さんは多くの人々に資料を配られて宣伝されました。早朝にポステイングもされたのです。本当に頭が下がります。

 反省すべき点は多いのですが、それ以上に収穫がありました。どのような企画が市民を惹きつけるのか、どうすれば多くの人々に知らせることができるのか、どうすれば多くの方々に御来場いただけるのか、それを掌握できたということです。中学の同窓生も駆けつけてくれました。新しい人とも知り合いました。坂井市からも福井市からも御来場された方がいらっしゃいました。

 この事を励みとして、今後も故郷の史跡、文学、逸材を発掘して市民に紹介していきたいと思います。

「声の広場」をおかりしましてお礼を申し上げます。ありがとうございました。

612.(untitled) 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/11/20(金) 9:22
 本日(11月20日付)の福井新聞「坂井奥越」欄に『石碑が語る明治鉄道史』が紹介されておりますのでご覧ください。

608.「石碑が語る明治鉄道史」 再度の紹介 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/11/18(水) 13:7
 11月21日(土)市民文化研修センター研修室(金津本陣IKOSSA3階)にて午後1時30分より(問い合せ あわら市郷土資料館(73−5158) 

「仲仕組創立紀念之碑が語る明治鉄道史」の講演がおこなわれます。ぜひご来場ください。

講演内容

序文 碑文解読
明治34年(1901)7月に建立された「仲仕組創立紀念之碑」は風化が激しく、欠落文字、判読不能の文字も多数ありますが、碑文の解読に挑みました。

1 明治初期の鉄道事情
明治という時代は封建国家日本が近代化に向けて必死に走り抜けた時代でした。西欧列強に肩を並べるため殖産興業、富国強兵をスローガンに掲げていたのですが、それを成し遂げるためには国内に幹線鉄道網を完成させることが必須条件でした。

明治2年の御前会議で鉄道敷設は国家事業として位置づけられ、出発したのですが、明治10年の西南の役で財政が極度に悪化し、民間による鉄道敷設に転換します。北陸三県の鉄道敷設も民間会社から始まりました。

2  東北鉄道会社設立
福井、石川、富山の三県は、旧大名が発起人となり、新潟〜富山〜石川〜三国〜福井〜四日市(三重県)を貫通し東海道線に接続させるという壮大な鉄道敷設を目的とした「東北鉄道会社」の創立願いを政府に提出したのです。

しかし政府工部省は実現性を危ぶみ、敷設区間を富山〜石川〜三国〜福井とするよう通達を出しました。これに反発したのが福井県でした。福井〜武生〜敦賀、さらに東海道線への接続は福井県の悲願だったのです。福井発起人はすべて脱退し、「東北鉄道会社設立構想」は瓦解したのです。

3  北陸鉄道会社設立
各地で鉄道敷設運動が活発する中、北陸三県も再び鉄道敷設に向けて動き始めました。それが「北陸鉄道会社」設立運動です。紆余曲折がありましたが認可され、いざ動こうとする矢先、またしても三県の足並みが乱れました。お決まりの人事抗争です。加えて莫大な敷設費用を調達することができず、またしても瓦解したのです。

4 北陸線、国家事業となる
明治25年、主要幹線鉄道を官設とする「鉄道敷設法」が成立し、北陸線は国家事業となりました。シベリア鉄道がウラジオストクに向けて着々と延伸され、極東支配を目論むロシアへの警戒がありました。北陸線を東海道線に接続させ、日本海側に兵員、物資の搬送を容易にさせるためでした。

5 北陸線のルートが三国から金津に変更される。
従来のルートは福井〜森田〜三国〜大聖寺でした。しかしこのルートよりも森田〜金津〜大聖寺が敷設区間が短く、工費を節約できると鉄道官僚が主張しました。これに対して経済界の重鎮、渋沢栄一は鉄道は(既存の物流拠点である)港湾と繋ぐことが、より利益に適うとして三国迂回を主張したのです。そこに割って入ったのが軍部でした。

海上から攻撃されやすい海岸線に近い鉄道敷設に反対したのです。激論が交わされ、水面下で運動がおこなわれ、一時は三国迂回が決定されたのですが、日清戦争(明治27年7月25日)直前の6月、軍部の圧力により金津経由が決定しました。

6 鉄道開通後の物流事情
鉄道開通後、海運水運は急速に衰退しました。物流の拠点は鉄道の主要駅に移り、駅での荷役作業、運送業務を担う労働力が求められました。金津ではその労働力を水運の衰退で職を失った仲仕たちに求めたのです。

殖産興業推進のために陸上交通網の整備を目指していた政府も主要駅での運送会社設立は緊急の課題でした。それに呼応して設立されたのが、金津の場合「仲仕組」だったのです。

以上が簡単なあらましです。(当日はより詳細に、資料を駆使して説明します)
明治という、極めてまれな時代、国内事情、国際事情を説明しながら、金津駅開業、仲仕組創立の経緯を説明します。話すことは不得手ですが、その分は資料で補強します。金津の交通史を知りたい方は無論のこと、明治交通史、明治史そのものを知りたい方、参加をお願い申し上げます。(とんぼ)

尚、現在NHK朝のドラマで「あさがきた」、大河ドラマ「花燃ゆ」放映されていますが、この講演ではドラマの背景(激動の明治時代)も説明しますので、ドラマをご覧になっている方、より理解を深めるためにもぜひご聴講ください。

 

611.議会報告会に参加して 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/11/9(月) 6:23
 11月4日から6日にかけて12会場で議会報告会がおこなわれた。私はそのうち3会場に参加した。

 その感想を一言でいうなら「市民と乖離した議会と議会報告会」である。

 問題を6日に金津本陣IKOOSSAでおこなわれた「議会報告会」から提起しよう。

 司会者八木秀雄議員の挨拶の後、向山信博議員が進行係を務めた。9月の総務文教委員会(8日、9日)と厚生経済常任委員会(10日、11日)の報告があった。報告といっても既に広報あわらの中の「市議会だより」の棒読みである。(それぞれの委員会で理事者提案がすべて可決されている)

 参加者は周知のことを聞きたくて、貴重な時間を費やして参加しているのではない。

 今回の理事者提案に問題点はないのか、あわら市が直面する問題は何か、行政はどのように対応しようとしているのか、その情報を議会報告会に求めているのである。一方議会に対しては理事者提案に対して議会はどのように対応したのか、あわら市の抱える問題は何か、議会として今後どのように対応しようとしているのか、その説明を求めているのである。

 参加者の求める説明は一切なしで棒読みが終了した。会場には違和感が漂う。なにかがおかしいと皆が感じていたのである。違和感は私も共有する。皮肉たっぷりに

「この会は行政サイドの報告会なのか」と、向山氏に質した。皮肉が通じなかったのか、彼の言い訳は噴飯ものであった。「そのようなことを説明していたら時間が足りなくなる」

 本末転倒である。行政サイドに立った説明に時間を費やすから足りなくなるのだ。議会としての立場に徹すればたっぷりある。それが議会報告会の本来であろう。

 説明を終えると彼は「了承を求めたい」と言った。(おいおい・・ 議会は行政の広報機関なのか)、皮肉も通じないのであろう。多少語気を強めて叱責した。

「了承を求めたいとは、行政が口にする言葉だ。議員が口にする言葉ではない!」

 行政の誤りを糺すのが議会の役割である。その自覚があれば決して口にできぬ言葉である。

 参加者からの質問があった。「議員提案権があると思うが、そのようなことをされたことはあったのか」

核心を突く質問である。返答は正直ではあるが、参加市民の失望を招いた。

「これまでに一度もない」

 質問者の意図、つまり議会の奮起を促す意図を理解できなかったのであろう、情ない話である。

 4日の「湯の町公民館」、5日の「細呂木公民館」に参加した私はおおよその市民の要望を把握していた。とりわけ地区の懸案事項に悩む区長の訴えは部外者の私にも通じた。もちろん彼等は役所の担当者、さらには市長との懇談会でも訴えている。その声を議会にも届けたいと思うのは極めて当然である。

 害獣(猪など)の深刻な被害に悩む、細呂木区長会は窮状を訴えるため、話し合いの場を設けてもらいたいと議会に対して請願した。

 その取り扱いは議会運営委員会(向山信博委員長)に託されたが門前払いとなった。9月8日の総務文教常任委員会の席上、向山氏は信じられない言葉を発している。

「区長会から請願があったが、それらをいちいち取り上げていたら議会としての活動ができない」ふざけた話である。

『市民の声を吸い上げ、市政全般に反映させることが、議員、議会の責務である。そのための日々の努力を怠ってはならない』議員の最も大切な心構えであり、その心を放棄したら議員として、議会として存在価値がない。議員としてのとりわけ地方議会の議員としての心構えの基本である、それすら理解していないとは・・・。

 だが彼等の意識は逆行している。議員は怠慢そのものである。それが通用するのがあわら市議会である。市民はこれが当たり前だと思ってはならない。本会議の活気のなさは他の自治体の追随を許さない。市民と議会が断絶している意味でもあわら市が群を抜いている。

 細呂木区長会を始めとして、議会と意見交換の場を求める区長会は多い。それらは手続きとして、まず議会運営委員会に諮られる。同委員会の長でもある向山氏に

「今後区長会との話し合いに応じるつもりはあるか」と質した。彼は「議会として応じることはない」と答えた。

 あわら市議会には問題点は多い。その元凶は「議会運営委員会」にあることは明白である。同委員会会は議会が円滑に運営するために設置された。だがそのことが極めて悪しき旧弊を生んでいる。極言すれば議会を「見ざる、聞かざる、動かざる」に徹しさせているのだ。議会の活気のなさ、問題意識の希薄さの原因はそこにある。

「議会運営委員会」の刷新が議会活性化に向けての第一歩である。もちろん同委員会にだけ責任を押し付けるつもりはない。議員の事なかれ主義が「悪しき議会運営委員会」の存在を許しているのだ。議員が怠慢を享受するには現状固定、市民との断絶がベストであり、刷新を望まない雰囲気が議会に漂っているのだ。

 それを打破するには多くの市民が声を上げるしかない。

 報告会の後半に入り、参加者の意見、要望が相次いだ。前日の細呂木公民館でもそうであったが、進行係はノラリクラリと答弁し、行動するとの発言は一切ないのである。極めて消化不良の報告会、意見交換会に終始しているのである。

 今回も竹田川河川敷美化運動についての発言があった。昔、町内を流れる竹田川は姫川と呼ばれた。美しい流れにその名が付いたのである。以前の美しさを取り戻そうと美化運動に汗を流されている地区の人々は多い。だがボランティア活動だけではとても手が回らない。市や県の介入が必要なのである。質問者はそのことを要望した。

 向山氏の返答は要領を得ない。整理すると地域住民に丸投げである。真面目に応答していない。しょせん議会報告会とはこんなものと思っていても腹に据えかねる。私は声を荒げた。

「まるで他人事だな。みんな真剣なのだ。一生懸命に取り組んでいるのだ。細呂木区長会では猪駆除に自衛隊の協力を要請しようとさえ考えている。深刻な被害に腹をくくって対応しようとしているのだ。なんだ議員は!市民の要望に腹をくくって対応したらどうだ」

 彼は返答できず、きまずい雰囲気が流れかけた。それまで沈黙していた山川豊議員が、
「伊井地区に住む市民の一人として竹田川の美化について、皆さんと思いを共有します。手段を講じて美化運動に努力してゆきます」と、その場を繕ってくれた。ぜひともそうしていただきたい。他の議員はともかく山川豊議員に二言はないと信ずる。

 八木議員が「他に質問はないですか」と促したが、質問はなかった。結局20分ほど時間を残し報告会は終了した。終了の挨拶があったが誰一人として拍手はしなかった。

 あわら市議会の問題点は明確になった。議会改革のプロセスは多岐に渡るであろう。だが、市民と議会を隔絶しているのは「議会運営委員会」である。議会刷新の第一歩は現状の「議会運営委員会」を解体し、風通しの良い「議会運営委員会」を設置することから始めるべきであると断言したい。

 現在の「議会運営委員会」が、あわら市議会の停滞、怠慢を許している。

 この意見に同調する議員も少なくはない。だが、声を上げろと促しても彼等は仲間意識が強く、しがらみに捉われて尻込みするのだ。彼等に自浄能力を期待できない。

 外部から糾弾するしかないのである。

 

610.昨日(一昨日)の飲み会 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/10/31(土) 17:7
 昨日(一昨日)は牧田氏事務所で痛飲した。いつの間にか一升瓶が、さらに焼酎の瓶が何本か空になっている。事務所を出るときにはさすがに足もとが多少ふらついていたと、迎えの者が云った。

 各々が酒を、肴を持ちこみ議論を交わすのである。論は文学、芸術、歴史、料理から郷土史に及ぶ。いつもそうである。良い大人が青っぽい書生論を交わすのである。時々牧田氏の女性談義が入り込み、笑いを誘い、それが息抜きにもなるのだが、直ぐに青臭い書生論に戻る。

 酒席を楽しくするには浮世離れした話題が良い、それが粋というものだ。そのうち牧田氏が酔い潰れて眠り、それで散会となるのがいつものパターンで、昨日もそうだった。

 途中、K女史より電話が入った。彼女は某全国紙の記者で、7年前まで福井支社に配属され、その後高松支社に転勤、現在は松江支社で活躍されている。経緯は込み入っており省くが、彼女に触発されて私は文章を書くようになった、云わば恩人である。私より遥かに若いが優れたジャーナリストである。

 その彼女が来芦する。7年ぶりの再会、旧知の人達を交えて懇談、飲み会となる。

「朋あり遠方より来たる また楽しからずや」  何にも増しての楽しみである。

609.食の祭典 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/10/25(日) 13:36
 昨日、今日と「さかい・あわらの海山里まつり」がおこなわれている。「B−1グランプリ」は旧森田銀行前と三国文化未来館の2会場でおこなわれ、今年のグランプリー「勝浦タンタンメン」も披露された(10月25日福井新聞)らしいが、そこは完全にスルー。話題性を求める企画には興味がない。

 それよりも地元の食材に惹かれ、出店している知人の所を訪れたい。

 剱岳ソバが出店しているサンセットビーチに直行した。手伝っている知人に声を掛け、おろしソバを頂く。相変わらずおろしソバのみである。レパートリーを広げ、ニシンそば、天ぷらそば、蕎麦掻き、蕎麦団子なども扱えば良いと思うのだが、頑固におろしソバにこだわっている。それはそれで良いのかも知れない。

 10年ほど東京で暮らしていたのだが、彼地ではソバは笊(又は盛り)そばが主流で、ニシンそば、天ぷらそば、月見そばも好まれる。おろしソバを扱う店は少なく、そういう店に出くわすと、懐かしく、大盛りを注文する。おろしソバは福井県民の郷土食なのであろう。

 サンセットビーチ会場を歩く。あわら商工会テントでは餅、寿司、お握りを等を販売している。顔見知りがおり、お握りと餅を購入。野菜即売テントではカブ、トマトがみずみずしく、試食したタクワンも美味しいので、それらを購入。

 その後、北潟の風羽里(ふわり)会場に向かった。出店は少なく来場者もまばらである。ただ風景は素晴らしい。展望台から北潟湖、吉崎、坂井北部丘陵地が一望できる。故郷の自然美が堪能でき、観光スポットに成り得るだろう。

 風羽里広場にはソバ(赤ソバであろうか)、サツマイモ(富津金時)、茄子などの野菜が植えられていた。中途半端な感がしないでもないが、開園して半年、整備はこれからが正念場。これからの成否は運営(企画、商品開発、広報、販売促進活動)次第で、地域振興のためにも成功して欲しい。

 会場で大根(一本120円)を三本、里芋(一袋250円)一袋、柿(大袋で100円)一袋を求める。いずれも品質は上々、スーパーのものよりもはるかに安価でみずみずしい。帰路、きららの里による。大根葉、みかん、ナメコを求める。

 日本海に近く、他県人には海の幸が豊富と思われているが、それよりもあわら市は里山の地である。里山の幸に恵まれている。故郷自慢ではないが、農産物の豊富さ、美味しさは他県に勝る。ただ残念なことに、そこに留まっている。

 あわら市に欠けているのはそれらを活かす加工技術、企画力、広報活動、販売促進力である。結局の所、担う人材が不足している。

 此地が恵まれた自然の幸(潜在能力)を活かすには人材の発掘、育成が必要と、感じた一日でもあった。

607.印牧先生講演会 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/10/11(日) 0:12
 今日(10月10日)、印牧先生の講演会が百寿苑でおこなわれました。
演題は「貝塚」「坪江荘と市場」いずれもあわら市から題材を選んでいただきました。先生は三国町にお住まいですが、「みなさん地元の話を聞きたいでしょうから」との配慮からです。

 先生は芦原町史を編纂されており、無論詳しいのですが、金津町の史跡にも通じておられます。古代の桑野遺跡から中世の坪江荘と春日神社、市場との関係、近世では北陸街道と千束一里塚についても調査されております。

「貝塚」では、福井県で発見された縄文時代の貝塚(芦原町舟津、及び井江葭貝塚。金津町の大鳥神社を含め)が近畿圏の貝塚と類似性があることを指摘され、その意味を説明されました。

「坪江荘と市場」では、坪江荘は鎌倉後期の正応(しょうおう)元年(1288)、後深草上皇が天下泰平を祈願するため坪江郷を興福寺に寄進し、興福寺塔頭(たっちゅう)の大乗院門跡(だいじょういんもんぜき)が支配した荘園で、その地域は坂井郡の東部丘陵地帯(竹田川上流部・・上郷)から坂井郡の西部、つまり加越大地、北潟、日本海岸(竹田川下流部・・下郷)に及んでいたことを説明された。

 金津の春日神社は坪江荘の総社で、永仁(えいにん)6年(1298)、春日分神を大溝神社に合祀、大溝神社又は春日大明神と称したことが始まりで、明治10年、大溝春日神社と改称されたそうです。

 福井地震後、町内の市姫神社、金山神社、白山神社を合祀して総社金津神社と改称し現在に至っています。

 印牧先生は春日神社と市場の関係を説明され、春日神社の周囲には市が立ち商業集落を形成されたと述べられました。

 おおよそ2時間をとても93歳とは思えない張りのある声で話されました。それも膝を崩されることなく、背筋をピーンと張られてです。長時間それを崩さない。見事なものです。
先生の博識には驚くばかりですが、それ以上に心を打たれるのは立ち居振る舞いです。いつも感心させられます。

 それほど御自身に厳しいお方が、誰に対しても優しい。私たちに対しても敬語を使われる。ときどき先生のご自宅にお邪魔するのですが、いつも恐縮するほど歓待してくださるのです。

 先生の送り迎えをさせていただくのですが、御自宅、お寺を出られとき、必ず御自宅、境内、お寺に向って手を合わせられる。帰られたときもやはりお手を合わせられる。神社、お寺をご案内をさせていただいた時も必ず何度も手を合わせられる。その姿に神々しさを感じます。

 印牧先生の口癖は「世間に御恩をお返ししたい」です。私たちは素直にそのお言葉に甘え、今後とも先生のご教授を仰ぎたいと思っております。

 いつぞやのことです。牧田さんに「先生の爪の垢でも飲んで私も少しは謙虚で寛容な人間にならなければ」と云ったところ、彼は笑っていました。無理だと云われるまでもなく本人が十分自覚しているのですが・・・。



 

 

606.今日(9月29日)の福井新聞の記事より 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/9/30(水) 6:14
 9月29日福井新聞22面 奥越坂井欄より

 「93歳女性ギターお見事 定永さん(坂井)80代から挑戦」

 坂井市坂井町大関地区の敬老会が27日、大関小で開かれ、同町東中野、定永志まをさん(93)が約10年前から始めたギターの演奏を披露した。老いてもなお新しいことへ挑み続ける姿が、地元の高齢者に元気を与えた。

 定永さんは、80歳を過ぎたころ、弟が三味線を習っていたことから「じゃあ私は別の楽器を習おう」と思い立ち、あわら市内の教室で週一回、ギターを習い始めた。それまでは楽器は、三味線やハーモニカを「少しだけ」演奏したことがある程度だったという。

 教室以外でも、軽トラックにギターを積んで農作業の合間に練習を重ねてきた。これまで老人ホームなどで腕前を披露したことはあったが、地元で演奏するのは初めてという。

「敬老会に誘われて、じゃあギターでも弾きましょうかと冗談をいったら、本当になってしまった」と笑う。

 この日は「ふるさと」「旅愁」の2曲を披露した。ステージに上がる様子は弱々しかったが、ギターを手にすると表情は一変し真剣そのもの。滑らかなコード進行でギターを奏で、来場者と一緒に「ふるさと」を歌い上げた。

 定永さんは「無事に終わってほっとしています。聞いてくれた人が、あんな風に元気でいられたらいいなと思ってもらえたら」と話していた。(久保田和男記者)

 定永さんは「声の広場 NO602 9月14日付 初秋の一日」で紹介した海浜公園でギターの練習をする年配の女性です。

 紙面の中央、大きく取り上げられています。驚きました。脱帽です。

 

605.故郷再発見 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/9/25(金) 19:0
 連休の一日、京都に小旅行をした。朝6時30分出発、小浜から鯖街道に入り熊川宿、朽木を経由し京都の郊外、大原に入ったのが11時、予定より1時間弱遅れた。

「京は遠ても十八里」と若狭の人は云った。京滋への親近感からであろう。古代より若狭は都の文化を受け入れ、経済面でも依存してきた。実際若狭は明治9年(1876年)から明治14年(1881年)の間、越前から分離され滋賀県に編入されていた。その後再び福井県に編入されたのだが、地元で強い反対運動が起こっている。その気風は今も残る。

 鯖街道は若狭と京都をつなぐ道である。若狭の人は魚介類を都に届けるために街道を昼夜問わず駆け抜けた。その距離72キロ、県境を過ぎると幾つもの峠を越えねばならぬ。自動車道として整備された現在でも難路である。道は曲がりくねり、対向車を絶えず意識して中央車線をはみださぬよう運転する。

 その難路は荷物を背に徒歩で一日二日では踏破できない。運搬は馬に頼った。それでも山中で往復それぞれ一夜を過ごさなければならない。「鯖街道」とは近年つけられた名前で、当時は苦難街道で、冬季には死人も出た。それでも彼等にとって都は「たかが十八里」なのである。

 その街道を走る。道脇にススキがそよぎ、畔道には彼岸花。コスモス、萩、キキョウ、ケイトウ等、馴染みの野草に混じり茄子の果実花も見かけた。観賞用に栽培されたもので真っ赤な実、トマトに似ているが食用にはならない。

 大原には天台五門跡の一つ「三千院」と、建礼門院が籠った「寂光院」がある。建礼門院は平清盛の娘、平徳子。壇ノ浦の戦いで徳子は我が子、安徳天皇を抱いて海中に身を投じた。幼子は海中に消え、我が身のみ生き残った。

 平家滅亡後、許された徳子(建礼門院)は出家し寂光院で安徳天皇、平家一門の菩提を弔いながら生涯を過ごした。平家物語の最終章は建礼門院が平家一門の盛衰、自らの生涯を後白河法皇に語る形で幕を閉じている。

 その寂光院も訪ねる予定だったが、道中で時間をロスしたため三千院のみとした。大原は京都北東部に位置し、山麓の中腹に古刹はある。荘厳、華麗という趣はないのが好ましい。阿弥陀三尊像(国宝)、竹内栖鳳(せいほう)、下村観山らの襖絵が有名だが、私はあまり興味がなく、名刹の庭園に惹かれた。

 松、杉、桧、桜、梅、楓を始め多種多様な樹木に一面の苔が調和している。紫陽花苑も有名だが花季が過ぎており、所々に名残花を留めるのみであった。

 参道の一方には店が軒を連ね、なかでも漬物屋が目についた。反対側は清流が流れ、岸辺には黄色い小花のキンミズヒキ、ブタナ、キバナコスモス、ハギ、彼岸花が雑然と咲いている。鮮やかな青色花はツユクサ。この花の青色素は染料として都で重宝された。

 三千院から東寺に向う。東寺は京都駅近くにある。連休で混雑に巻き込まれ目的地へ容易に到着しない。ようやく着いたが寺院駐車場が満車で、民間駐車場を捜すのに手間取った。

 延暦13年(794)、桓武天皇は動乱の奈良から長岡京を経て平安京に都を遷した。その際、羅城門(羅生門)の東西に大寺を配した。東の寺が東寺。弘仁14年(823)に空海、東寺を賜る。それ以降東寺は真言宗本山として発展した。広大な敷地のなかに五重塔(国宝)、金堂(国宝)、大師堂(国宝)、講堂(重文)が威容を誇り、梵天像、帝釈天、不動明王、梵天、弘法大師像(いずれも国宝)、薬師三尊、十二神将、立体曼陀羅、大日如来、日光菩薩、月光菩薩(いずれも重文)が堂内に鎮座している。

 荘厳華麗であるが、どこか違和感を覚える。その違和感は境内に所狭しとテント屋台が並んでいることにあった。雑貨、民芸品、漆器、衣料品から柿ミカン、ジュース、アイスクリーム、菓子、乾物、干物、焼そば、唐揚げ、お好み焼き、鰻の蒲焼までありとあらゆるものが雑然と販売されている。

 古刹の品格を汚している。出店している人にも生活があろうが、もう少し秩序が必要だろう。それを統率することができず、安っぽい観光寺院化しているのだ。落ち着いて鑑賞する雰囲気が皆無、厳かな気分に浸れないのである。弘法大師はどのように思われているだろうか。

 故郷の古刹の方がよほど仏の教えを感じることができる。

 嵐山を訪ねる予定だったが、市内の渋滞に巻き込まれ、あきらめて帰路につく。高速に入るまでが大変、入ってからも渋滞が続き、敦賀を過ぎて渋滞を脱することができた。

 京都奈良にしろ金沢にしろ、雑踏を敬遠する私にはさして魅力があるとは思わない。観光地の食べ物が美味しいとも思わない。皆ムードに流されているだけだ。

 今回の京都旅行で印象に残ったのは大寺でも国宝仏像でもなかった。熊川宿を過ぎた頃からの渓流と山々の景色、大原の穏やかな山里風景であった。

 それらは故郷で見慣れた風景である。食べ物も素朴ではあるが、素材としては此の地が遙かに勝る。

 いたずらに彼の地を羨むのではなく、模倣するのではなく、故郷の良さを発見し、独自の道を歩むことが求められるのではないだろうか。

604.地方自治法 記録の削除に関する規制(法的根拠) 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2015/9/20(日) 0:43
 総務常任委員長、山本篤氏が委員会での議事を一部削除しょうとしている。理由は委員、向山氏の発言が著しく不適切で、意見陳述人及び市民を侮辱するものであり、公開することにより向山氏が批判を浴びることを恐れているからである。

 向山氏はこの件に関して陳謝していない。にもかかわらず委員長、山本氏は事実を隠蔽し幕引きを図ろうとしている。

 あきらかに地方自治法、「公開の原則」の趣旨に反している。法律違反の恐れ大である。法律違反を承知で違法行為を行えば委員長辞任では済まない。議員辞職に値する。そこまでの覚悟がおありであろうか。

 委員長は、まず議事録の(インターネットを含めて)の削除の理由を明らかにしなければならない。

それが暴言を浴びせられた意見陳述人への委員長としての最低限の義務である。それを無視することは公人として無論のこと、人間として許されない。

 念を押す。向山氏の暴言の後、私は委員長に「今は休憩中なのか」と質した。委員長は「(委員会)進行中です」と返答した。ビデオを見れば一目瞭然である。委員長が委員会外の発言として、削除の理由とする詭弁は通用しない。

 いずれにしても道義的にも法的にも削除することには極めて問題が多い。それでも敢えて暴挙をおこなえば、法的に罰せられる可能性があると、指摘したい。少なくても道義的には必ず罰せられる。

 


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