[ ホームページ ] [ 携帯用URL ]
声の広場

[ EZBBS.NET | 新規作成 | ランキング | オプション ]
iモード&(絵文字)、au対応!ケータイからも返信できる無料掲示板!
名前
 E-mail 
題名
内容
投稿KEY    タグ有効 改行有効 等幅フォント
URL



643.たかが三つの段差、されど・・・。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/8/15(月) 19:11
 昨日墓参りをした。国影の共同墓地で、祖父母、父母、兄が眠っている。父は63年前、母は37年前に亡くなった。ずいぶん昔のことで、多分その頃であろうと思うだけである。言語道断の親不幸者だが、それでも8月に入ると雑草を抜きとり、墓を清めて準備をする。
 13日が墓参り、花を手向けて手を合わせる。元々が「死は無」との思いから死者への感傷が希薄である。先祖を敬う殊勲な気持ちもない。「罰当り」と指摘されようと気にとめない、今を生きる人間こそがすべてなのである。形ばかりの儀式を終え墓を去る。

 敷地内に戦没者墓地がある。ほんの僅かばかりだが小高くなっており、三段ばかりの階段がある。それも一段あたり10〜15センチであろうか、さして高いとは思われない。その先はなだらかな傾斜になって、数十基の戦没者の墓が並ぶ。

 階段手前に高齢の老婦人が立っていた。小柄な腰の曲がった婦人でおそらく90歳なかばと思えた。彼女は動かず、墓地の一点を眺めていた。連れの男性が声を掛けた。50代半ばで孫であろう。
「おばあちゃん、無理だ。お負(ぶ)るよ」
老婦人は、その声に応えず、一点の方向を凝視している。その先にあるのは彼女の夫の墓であろうか。

 たった三段ばかりの、僅かな段差の階段。だが、彼女にとって乗り越えられない、自力で花を手向けることも、手を合わせることも拒む階段である。

 71年前の8月15日、数えきれない、数百万人のそれぞれの人々にとって貴重な命を奪って戦争は終わった。戦争の悲惨さ、残酷さは身に沁みて日本人は知った。だが、71年の歳月は確実に日本を日本人を変えた。

 日本国民は、私を含めて8月15日をどのように位置付けているのであろうか。
あの老婦人の想いを拒むものは階段だけではない。彼女の心情を理解できる日本人はもはや皆無になったのか。

 あの悲劇、惨劇が再び繰り返されるかも知れないというのに・・・。

 

642.ふたつの講演会を終えて。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/7/25(月) 18:46
 高戸甚右ェ門さんの講演「インダスの流れ」(7月21日)、福井県立大学教授農学博士・北川太一氏の講演「農業・むら・くらしの再生は」(7月24日)が予想以上に参加いただき無事終了しました。参加された方々にお礼申し上げます。

 高戸さんは60年前のパキスタン滞在を鮮明に記憶されており、赤裸々に語られました。1948年(昭和23年)パキスタンはインドから分離し、その時はインドを東西に挟むように西パキスタンと東パキスタンが存在していました。さらに1971年(昭和46年)東パキスタンが分離してパングラデシュとなり、西パキスタンが現在のパキスタンとなっています。

「639 インダスの流れ」と重複するので記述は避けますが、個人的感想を述べるならイスラムを理解することは私たちには到底不可能です。それがビジネスが目的であろうと、たとえ人道支援が目的であろうと、日本人の常識が通用しないこと、絶えずリスクが発生することは60年前も現在も変わっておりません。相手を理解しているとの勝手な思い込みが悲劇を生む。考えれば私たちの人間関係でもそうなのですが・・・。

 当日現地食「チャパティ」を試食してもらいました。もっとも現地の作り方では日本人の口には合わないだろうと思い、多少アレンジしてクレープ状にしましたが・・・。
 現地食を提供した理由は、「食文化から洞察する」との思いからです。たとえば戦後の困窮時代を理解するには、屑野菜と粗悪小麦粉の団子のスイトン汁、甘みがなく水っぽいカボチャを(米の)代用食として食する方が、百の能書きに勝る、そんな思いからです。

 米の主要生産国でありながら粗末なパン(チャパティ)を主食とせざるを得ない人々の貧しい生活を理解してもらいたかったのですが、「意外と美味い」と云われて効果があったのか疑問です。それはさておき次回はメキシコのタコスに挑戦します。

 さて北川太一氏の講演ですが、氏は日本農業の危機を訴え、農業が食糧安全保障(日本の食料自給率は39%。先進国中ダントツの最下位)の面だけではなく、国土保全、生態系環境の維持保全、雇用確保などに果たす役割を述べました。

 彼は統計表を示し、あわら市の農業現状について説明しました。以下の数字は2005〜2010年の農家数の推移です。 △はマイナス
総農家数 △604(33・4%減)販売農家数 △670(42・8%減)自給的農家数 66増(26・9%増)土地持ち非農家数 545増(58・4%増)

 2005年以降、5年の間で農家数は33・4%(20%)販売農家数は42・8%(26%)減少し、逆に自家消費のみ生産する農家が26・9%(1・5%減)増加しています。農地を所有するが生産しない農家が58・4%(34・3%増)増加していいます。( )内は県平均の数字で、あわら市の生産農家数の減少は顕著で、自家消費型農家は県平均はわずかに減少しているのですが、あわら市は大幅に増加しています。

 販売目的に生産しないが、農地があるから自家消費分だけ生産する(元農家)があわら市では断然多いということです。良し悪しの問題でもなく、行政の責任でもなく、これが日本農業の姿なのです。

 現状ですら、このありさまですからTTP交渉が妥結し、高齢化が一層進みますと、あわら市のみならず日本の農業はまったく姿を変えるであろうということは、門外漢の私にも容易に理解できます。

 国内農業の崩壊に危機感を抱く人もいれば、国際分業の観点から容認すべきと考える人もいるでしょう。

 ヘイゼル・ヘンダーソン(未来学者)に「地球市民の条件 人類再生のためのパラダイム(規範)」という著書があります。そのなかで彼女はこのように述べています。

「社会を構成する四つの層がある。
@は私的・民間部門で生産、雇用、消費、投資、貯蓄などである。
Aは公的部門、国家・行政が関わるのだが、財政、インフラ整備、公共サービス、学校、医療、社会福祉、地方自治などである。
@とAを貨幣的経済価値とするなら、

Bは人と人との互恵的関係、精神的な価値である。つまり家族、無償労働、おすそわけ、助け合い、ボランティ精神である。
Cは自然の本来の姿に価値を見出す。農地・森林・海洋などが有する多面的な機能を尊ぶ。
BとCは非貨幣的経済価値といえよう。

 社会生活は貨幣経済価値と非貨幣経済価値のバランスの上で成り立つ」

 当然といえば当然ですが、現代を直視すれば、農業を考えれば示唆に富んだ言葉です。

 農業はBの精神土壌に培われ、Cの恵みを受け、これを守っています。農業は食料の確保だけではなく文化そのものです。のみならず生きとし生けるものの拠りところです。だから守らなければならないのです。

 

641.今日一日 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/7/12(火) 23:11
 9時30分、あわら市長室にて印牧邦雄先生著「あわらの歴史と文化」贈呈式が行われた。100冊があわら市に寄贈され、今後有効に活用されるだろう。その後先生とお茶を飲みながらお話をうかがったのだが、すでに新たな著作「九頭竜の歴史(仮題)」に取り組んでおられ、その次の作品「福井県の繊維産業」にも意欲を燃やしておられる。
 85歳から福井県の郷土史を1年に1作品のペースで出版され続けておられる。93歳の高齢にもかかわらず、常に前進される姿は私たちを魅了する。

 午後より「インダスの流れ」(NO639・640参照)で提供するチャパティをつくる。レシピにしたがってつくると煎餅状になり不味すぎる。工夫が必要だ。当日は来場者に必ず納得いただける料理を提供したい

 夕方から「第4回あわら市9条の会講演会 農業・むら・くらしの再生は?」(講師 福井県立大学経済学部教授 農学博士北川太一氏)の打ち合わせ会議。農業スペシャリストである北川太一氏の提言を多くの人に知って頂きたいとの思いからの企画です。農業に従事されている方はもちろん、そうでない方々にもぜひご来場くださるようお願い申し上げます。

 帰宅してから、8月21日の講演「堀江一族」の原稿作成。ビールとウイスキーを飲みながらの作業に眠気が襲う。1ページも進まないうちに筆を置く。マイペース マイペース。 

640.「インダスの流れ」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/7/5(火) 22:0
 高戸甚右ェ門さんの講演「インダスの流れ」が決まりました。
期日  7月21日(木)13時30分〜
会場  中央公民館(金津町)1F和室。
会費  200円
※   彼等の主食であるチャパティを味わっていただきます。
準備の都合上、事前に連絡ください。
吉村  090-3052-3178
長谷川 78-7666
牧田  090-1635-5710

639.「インダスの流れ」の紹介 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/6/26(日) 9:43
 あわら市河間在住の高戸甚右ェ門氏は大正12年(1923)生まれだから93歳になられる。高戸氏が35歳(昭和33年・1958)の時、2年間コロンボ計画(東南アジア開発計画)で、西パキスタン(現パキスタン。東パキスタンは現パングラディッシュ)に農業技術指導員として派遣されました。

 その滞在記をまとめたのが「インダスの流れ」です。著書のなかで氏はパキスタンのみならず、インド、アフガニスタンにも足を延ばされ現地の実情を記録されています。イスラム過激派アルカイダが結成される以前でしたが、インドパキスタン分離戦争(1948)から10年しか経過していません。分離戦争ではインド(ヒンズー教徒、シーク教徒)とパキスタン(イスラム教徒)の間で憎悪心から殺戮虐殺が繰り返されていました。

 貧困と因習、閉ざされた社会、厳しいイスラムの掟。おおよそ西欧型民主主義の概念も道徳も一切通用せず、唯一絶対の神・アッラーフの教えが全ての判断基準となる宗教国家に足を踏み入れた高戸氏は貧困と習慣、思考の違いに戸惑うばかりでした。

 アフガニスタンとの国境では手製拳銃が店頭に並び、男子は幼い頃より拳銃とナイフを当たり前のよう手にします。男は勇敢に戦い潔く死ぬことが至上とされ、女は強壮なる子供を産み、立派な戦士に育て、戦場に送りだすことが義務であるとされていたのです。

 これは十字軍遠征(1096年〜)でキリスト国家に侵略されたイスラム国家に芽生え、戦乱を通して培養された暴力主義、イスラム絶対主義が一部ですが大衆に浸透していることを意味します。それを今から58年前に高戸氏は見聞されたのです。アルカイダ、ISは突然出現したのではなく、彼等が出現する土壌は常にあり、過激派は大衆の不満を背景に勢力を保持し続けます。今彼等を殲滅したとしても必ず復活することを覚悟する必要があります。

 単なる異国、異文化への興味だけではなく、イスラム、イスラム国家を理解するために吉村氏が中心となり、高戸氏に「パキスタン滞在記・・インダスの流れ」の講演を依頼、実施に向けて日程を詰めています。最も今日的、タイムリーなテーマーでしょう。

 当日、彼等の主食「チャパティ」と「カレー」を著作を参考に再現することで私も協力します。参加者に味わっていただきます。もちろん当時の彼等の粗末な食事を味わっていただくことが目的であり、美味しさ不味さは不問にしてください。

 詳しくは後日掲載するので関心のある人は申込下さい。
尚「インダスの流れ」は図書館で借りられます。

638.早朝散歩 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/6/20(月) 7:25
 原稿の締め切りがプレッャーとなり「声の広場」に投稿する精神的余裕がない。それでもいっこうに筆が進まず気分転換に投稿することにした。

 2週間ほど入院し体力が落ちた。早朝散歩で体力回復に努めている。5時ごろから歩き始めるのだが意外な発見がある。早朝には鳥の活動が観察できる。カラスは相変わらずだが、雀もツバメもセキレイも活発に飛びまわっている。水田にはチュウサギ(白色)、ゴイサギ(灰色)が昆虫を啄ばむ。場所によってはヒバリ、ウグイスの囀りも聞こえる。

 カルガモの親子散歩も見られる。場所は公表できないが、某所では5時50分ごろになると用水路から県道を渡り水田に向う。昨日(18日)、カルガモの親が県道を横断して水田に向った。私の5〜6m先である。私に気付いた親ガモは歩みを速めた。そのあとを2羽の子ガモが全力で追う。だが4〜5羽は躊躇して繁みに隠れた。急いでその場を離れ、振り返ったが残された子ガモが渡った様子はない。あの後どうなったのであろうか。田んぼ、電線、ガードレールの上でカラスが辺りを見まわしている。無事だといいのだが。

 その前日はシマ蛇に遭遇した。農道を歩いていたのだがふと横に目をやると1メートルほどのシマ蛇が横たわっている。日なたに身を晒し逃げる様子もない。カルガモの親子ほど可愛いとは言い難いが、人に害を及ぼすことはない。毛嫌いされるいわれはない。彼等も初夏の到来を告げる生きた風物詩である。

 水田は日々緑を増し、やがて蛙が合唱がはじまるだろう。カエルを狙う鳥が飛び交い、蛇もカエル、昆虫を求めて活動する。それも自然の営み。

 これからは蛍の季節である。蛍見学を兼ねて夜の散歩も楽しい。本格的な梅雨に入ったら、酒を飲みながら蛍見学を楽しもうか。

 子供の頃この時期には川、田んぼ、沼で泥鰌を捕まえていた。中学生になると見よう見まねで泥鰌鍋をつくった。下手な手料理で美味くはなかったが懐かしい思い出である。近頃泥鰌が生息する場所がめっきり少なくなった。どなたか泥鰌の棲む場所を教えてくれないだろうか。お礼に美味しい泥鰌鍋をご馳走する。

 

637.「あわらの歴史と文化」完成 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/5/9(月) 11:32
 5月6日、印牧邦雄先生著「あわらの歴史と文化」が印刷製本され、先生のご厚意により、あわら市に寄贈されました。市内図書館、中学校、高校、及び関係部署、関係者に配布いたしました。

 一般の方も図書館にてご覧になれますので、お目を通していただければ幸いです。尚非売品ですので個人購入はできません。

636.古墳を訪ねて。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/5/8(日) 5:46
 昨日(七日)かねての計画通り古墳探訪を実施した。天気予報では降雨の可能性もあったのだが幸い小雨ですみ、計画に支障はなかった。

 午前八時半坪江公民館に集合、参加人員九名。最初に、案内人であり、一行のリーダーでもある宇都宮氏のコースの説明があり、直ちに最初の古墳、椀貸山古墳(わんかしやまこふん)に向う。坪江地区だが地蹟上では丸岡町。工場敷地横の小丘に古墳がある。その名が示すように継体天皇の皇子(みこ)・椀子王(まろこのおう)一族縁の墳墓(ふんぼ)ではないかと考えられている。

 次に向ったのが神奈備山古墳(かんなびやまこふん)。雑木が生茂る急坂を、足下にからむ蔓(つる)を引きずるように登る。古墳に到着すると三〇センチほどの穴がある。奥は見えないが相当深い。宇都宮氏はアナグマの巣穴であろうと言う。「神奈備山古墳」の標識があるが、それがなければ此処が古墳跡とは気付かない。ちなみに神奈備山古墳はあわら市、丸岡町にまたがる。

 後山へ行く。大小くつかの古墳が尾根伝いにある。道なき道を地図を頼りに歩く。空間といえば空間、それが目印といえば目印。だが標識はもちろん、古墳跡すらないのだが、地形からおそらく此処であろうと推測する。さらに古墳を求めて歩くが、見当たらないまま行き止まりとなった。やむを得ず、沢に下りて道にでる。

 そこから東山に向う。未指定だが、古墳跡ではないかと思われる一画がある。こんもりとした小山であるが、形状としてはいかにも古墳然としている。もちろん道はなく、足場を捜しながら登る。古墳と断定はできないが、そこから見る風景は絶景である。緑の山々々に囲まれた棚田は風に田水が微かに波うち、清流の川辺には野草が咲いている。チュウサギであろうか、田んぼに佇み、辺りを見まわしている。純白の姿が美しい。

 いつの間にか正午となった。若干の心地よい疲労と空腹を感じたところで、本日の予定はこれにて終了。

 あわら市から丸岡町、さらには松岡町、永平寺町につながる、いわゆる横山古墳群の調査は福井県の古代史を解明するために欠かせない。今回はその第一歩だが、これからも調査の継続が求められる。最低限、標識の設置、道の整備がなされればと思うのだが、安易に訪れることが可能になれば、心ない人達によって古墳跡が荒らされる恐れもある。このまま眠らせるのも良いのかも知れない。

 それは別として自然を感じながら里山を歩くことは爽快である。野鳥の囀りを聞き、野辺の草花を鑑賞し、山々と田園風景を楽しむために、日を改めて剱岳散策に訪れてみよう。

635.「紫陽花」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/5/5(木) 8:41
 トンボ作品リストに「紫陽花」を掲載しました。第二次大戦に従軍した一兵士の数奇な運命を描いた作品です。希有の射撃の天才が比島で狙撃兵となり、米軍、現地ゲリラ兵に「プロフェショナル」と恐れられるのですが、彼自身は無益な殺戮と思いつつ、国家のために、同胞を救うために引き金を引き続けます。
 物語の冒頭部分では彼の死を匂わせていますが、どんでん返しがあり結末は意外な展開となります。ぜひご一読を・・・。

「堀江一族」はまもなく、第一部を掲載予定。

634.「あわらの歴史と文化を訪ねて」の出版はもうすぐです。 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/4/16(土) 8:16
「あわらの歴史と文化を訪ねて」は最終段階に入っています。校正を終えた後出版の運びとなります。これまでの県史、市町村史は一般の方には難解で馴染みにくいものでした。印牧先生は「福井県史」「三国町史」「芦原町史」の編纂に携わってきましたが、今回多くの人に読まれることを念頭に、あわらの郷土史を執筆されました。出版後この労作の多くが先生のご厚意であわら市に寄贈されます。図書館で、学校で、市内公共機関に配布されますので、多くの方々に読んでいただけます。古代から始まる郷土の成り立ちから現代に至るまでをコンパクトにまとめられていますので、出版のさいには中高生を始め、多くの市民に目を通していただけることを願っております。

633.豊かさとは・・貧しさとは・・ 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/4/9(土) 7:34
 近くに土地改良事業竣工記念公園、通称「二面公園」がある。広くもなく、樹木の種類も少ない。地域の人々にとって親しみがある公園とは言い難い。そんな公園だが周囲には桜が植樹されて、春になると、それなりの景観を醸し出す。

 だが、花見する人は地域の人さえほとんどいない。皆、桜の名所、たとえば丸岡城、一乗谷、福井の足羽川、あるいは滝谷寺の桜を鑑賞する。というより、イベント、人だかりを鑑賞するために集まるのだろう。上野公園ではシートを敷き、宴会をする輩さえいる。それが春の年中行事とさえなっている。

 それは桜を愛でるとことと全く別物で、風雅の道から程遠い。

 数年前、桜の季節のことだった。人気のない「二面公園」を散歩していた。桜が満開であったが、さして気に留めなかった。桜はどこでも満開で当たり前の風景である。

 公園のベンチで一人の老人が弁当を広げていた。それはコンビニ弁当であったかも知れない。近くに自転車がある。彼は作業服を着ていた。桜をみまわし、ゆっくりゆっくり箸を口に運ぶ。それこそ、ゆっくりゆっくりと・・・。時々箸を休め、穏やかな表情で桜を鑑賞している。

 その場を離れ、30分ほどして戻ったが、彼はまだ桜を鑑賞していた。桜以外は何もない公園で、その桜さえ平凡なものだが・・・。

 彼は桜に何をみていたのであろうか。感慨に耽っていたのであろうか。
 日本人は桜になにをみてきたのであろうか。ただ桜の美しさを愛でてきたのであろうか。
「ものをみる」ということはどういうことであろうか。対象を通して、その先にある
「みずからをみる」「過去をみる」ということもあるのかも知れない。
「決してみえぬものをみようとした」のかも知れない。
それが花見に凝縮されてきた。西行、世阿弥、芭蕉の世界である。

 ウルグアイ前大統領ホセ・ムヒカ氏のインタビューから彼の行動を連想した。

 明日は寂れた里山の桜を訪ねてみょう。

 

632.横山古墳群 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/3/28(月) 15:53
 男大迹王(をほどのおおきみ。継体天皇)の母振媛(ふりひめ)は坂井郡高向(たかむく。現高椋)の生まれである。しかし父の三尾氏の本貫(ほんがん。本籍)はこれまで近江国高嶋郡とされてきた。

 豪族の姓(かばね)は在郷の地名と深いつながりがある。三尾という地名は福井県内には見当たらず、近江国高嶋郡三尾郷(みおのさと)に見られる。さらに此の地には三尾神社があり、三尾氏の長(おさ)・彦主人王(ひこうしのおう)の別業(べつぎょう。別荘)とされる館跡も三尾郷に存在したと伝えられてきた。このことから、三尾一族は近江国高嶋郡を地盤とする豪族とされてきたのである。

 近年、この定説が覆された。三尾という地名が古代、坂井郡に存在したのである。天平5年(733)の「山背国愛宕郡某郷計帳」(やましろのくにあたごぐんぼうごうけいちょう)には越前国坂井郡水尾郷(みずおごう)の記載がある。水尾は三尾とされている。

 さらに『延喜式』(905年)の北陸道の駅名のなかに三尾駅が記載されているのだ。坂井郡内には水尾、三尾の地名が確かに存在していた。三尾駅は越前の最北駅とあるから金津・芦原・三国のいずれかに存在したのであろ。男大迹王の父母はどちらも坂井郡の豪族の可能性が高い。

 継体天皇が血統的には現皇室の祖とされている。わが故郷は発祥の地なのである。

 男大迹王と三尾堅楲(みおのかたひ)の娘・倭媛(やまとひめ)の間に生まれたのが椀子王(まろこのおう)である。その椀子王を始祖としたのが三国一族だった。

 三尾氏は坂井、足羽、丹生の三か国にまたがる豪族であったことから三国氏と改姓した。三国の地名は三国氏が語源である。

 天武天皇の天武13年(684)に新しい身分制度を作りだすために、「八色の姓」(やくさのかばね)が制定された。真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみを)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の姓が制定された。

 これら八つの姓は中央豪族に与えられ、地方豪族との身分格差を明らかにしたのである。なかでも真人・朝臣・宿禰は天皇一族とされ、真人はその筆頭とされた。

 三国氏は真人の称号を与えられ三国真人となった。三国真人一族は坂井郡で勢力を誇ったが、藤原氏(後に越前斎藤氏)の越前進出に伴い、対立するようになる。

 永祚(えいそ)元年(989)7月、藤原貞正、斎藤為延(ためのぶ)によって三国行正(ゆきまさ)が京都東山粟田口で暗殺された。以後三国氏は歴史の表舞台から消え去り、斎藤氏が台頭するのである。

 横山古墳群には、氏祖・椀子王から続く、一族に関わる古墳も見られる。松岡、丸岡、金津、芦原、三国の古墳、とりわけ松岡〜丸岡〜金津の連続する古墳群は国内的にも圧倒的な数を誇る。(横山古墳群だけでも大小合わせて3百基以上あるとされている)
古代坂井郡で勢力を有した豪族たちの墳墓である。

 他地域の古墳群は史蹟に指定され、古墳公園として整備されているものもあるが、横山古墳群はそうはなっていない。多くは雑林、竹林、藪のなかにある。公園として整備されることの是非はともかく、調査する必要があると有志が集まった。

 故郷の古代史に光を当てる意味もある。

 5月上旬に第一回の調査を実施。現状の写真を含めて、報告書を牧田氏のホームページで発表したい。

追伸
 印牧先生の「あわらの歴史と文化」は4月中に発刊予定。あわら市の古代史もわかりやすく解説されています。

 私の「新釈堀江一族 第一部」も4月上旬には上梓予定。とんぼ作品集に記載します。

 

631.あわら市史 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/3/5(土) 13:0
 印牧邦雄先生が「あわらの歴史と文化」(副題 先人たちが残した歴史のあと)を執筆されています。先生はこれまで「福井県史」、「三国町史」、「芦原町史」、「三国近代文学館」などを手掛けられ、県内屈指の郷土史研究家で、福井県文化財保護審議会長も勤められてきました。

 その先生が「あわら市史」を書き上げたい述べられた。これまで芦原町史、金津町史、細呂木村史、剱岳村史と個別の町村史はありますが、まとまったものはありません。しかも、あわら市(金津町)が全国に誇る桑野遺跡などについては金津町史では触れられていないのです。先生は直近の資料を駆使されています。先日第一遍(原始古代編)が上梓し、拝見いたしました。旧町史を凌ぎ、目を見張ります。

 先生は序文でこのように述べられています。
「本書を執筆するに至った動機は、40年余り前『芦原町史』が編纂された時にさかのぼります。その当時より町史のジュニア版を作りたいと念願してきたのですが、なかなか実現できず荏苒(じんぜん。なすこともなく)今日に至りました。
 最近、ようやく多年の夢を実行に移したいと決意するようになり、あわら市郷土史学習グループに御支援を依頼したところ、時を経ずご協力を頂くことになり、心から感謝している次第です。貴会には特に資料提供と校正についてご協力を得ることになりました。

 執筆に先だって、あわら市の先人たちが努めらてこられた歴史のあとを、いろいろ項目を立てながら、読み易いように文字を大きく、余りぶ厚いものにしないよう努めることにいたしました。
 末筆ながら印字原稿の作成と編集の労を煩わした松本盛博氏に深甚の謝意を表します。
  平成28年4月吉日
                   印牧邦雄

 あわら市史は原始古代から中世、近世、近代、現代と続き、約20編からなります。現在先生は近代まで筆を進められたとお伺いしています。
先生は大正11年(1922年)生まれですら94歳になられます。博識は無論のこと、情熱は驚嘆以外のなにものでもありません。唯々脱帽するのみです。

 この著作は自費出版の100部限定非売品で、50部はあわら市に寄贈したいと言われました。ありがたいことです。第一遍「あわらのあけぼの」を読みましたが、古代の歴史を非常にわかりやすく解説されています。これまでの郷土史の概念を一新する内容です。

 先生の情熱と、あわら市への想いに感謝するとともにいつまでもお元気で著作活動なされることを祈念します。
「あわらの歴史と文化」の完成が待たれます。

630.本日のあわら市議会 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/3/3(木) 2:57
 第81回あわら市議会定例会を傍聴した。
質問者は吉田太一、山本篤、三上薫、仁佐一三、平野時夫、山川知一郎の各議員であった。
質疑応答は明日の福井新聞に掲載されるであろうから省く。しかし山川知一郎議員の「イノシシ捕獲対策の強化を」「中学校スクールバス通学の無料化」は問題の深刻さから『声の広場』でも取り上げたい。


「イノシシ捕獲対策の強化を」に関連して。 
 市民の多くはイノシシ被害の深刻さを理解していない。だが里山、山沿いの農地の荒らされようは尋常ではない。収穫間近の水田にイノシシが侵入すれば彼等は稲穂に体を擦りつける。獣臭が染みついた米は商品価値がゼロである。筍、ジャガイモ、サツマイモ、里芋、大根の根菜類は彼等の大好物である。

 彼等は集団で侵入する。ふてぶてしい成獣もいれば、可愛げな瓜坊もいる。しかし間違いなく彼等は害獣なのである。最近では富津付近まで彼等のエリアが広がっている。狙いは大好物のさつま芋だ。放置すれば甚大な被害を蒙るであろう。彼等の繁殖力は旺盛で、環境が整えればネズミ算的に増殖する。

 当面の対策は捕獲しかない。昨年は300頭余が捕獲された。それでも追い付かない。あわら市は助成金を出して捕獲を奨励している。捕獲されたイノシシは埋められるか、業者に依頼して焼却される。そこでまた処分費用が生じる。行政も手を尽くしているのだろうが、なんとも手ぬるい。

 イノシシを食肉資源として活用したらどうか。イノシシ肉は栄養価が高い。カロリー、コレステロール値は低く、ビタミン、ミネラル分は豊富だ。蛋白質と脂質の成分は家畜肉に比べて良質である。栄養面で優れているだけでなく、部位によっては家畜肉よりも美味しい。欧州ではイノシシ、鹿、雉、鴨などの野生鳥獣肉はジビエ料理の素材として珍重され、高値で取引される。

 あわら市でも商品開発に取り組んではどうであろうか。ロースのステーキは美味。焼き肉も良い。バラ肉はシャブシャブを奨める。もちろんイノシシ汁も。肩肉、もも肉は脂肪分が少なくやや堅いのが難点だが煮込み料理に適している。コロッケやハンバーガーでも良い。

 問題は専用食肉処理施設が必要ということだ。食品衛生法により家畜肉処理施設で野生肉の処理はできない。そのため、貴重な資源肉を廃棄処分せざるを得ない。しかも多額の費用を負担して・・・。

 まずは山川知一郎議員が指摘するようにイノシシの生態を学習すべきだ。イノシシの行動パターンを熟知しなければ、俊敏で賢い彼等を捕獲することは困難だ。

 次に専用処理工場の建設である。多額の設備投資を要するから民間企業単独では手が出せない。害獣被害に頭を悩ましている福井県、あわら市、坂井市、福井市が支援すれば可能だろう。

 イノシシだけではなく鹿肉も処理すればよい良い。ロース、バラ肉は高級肉として高値で取引されるであろう。肉質が堅い肩股肉はミンチ肉すればハンバーグ、ミートボール、コロッケに使える。大量需要が見込めるのはペットフードだ。豪州では増え続けるカンガルーをペットフードとして輸出している。将来有望な分野だ。

 もちろんロース、バラ肉は高級素材として地域の特産品とすれば、話題つくり、地域おこしにも寄与する。

 まずは市民にイノシシを含めた害獣被害の深刻さを訴えることだ。イベントとして会場でイノシシ料理をふるまったらどうであろうか。それを県内内外に発信すれば、面白い企画になるはずだ。検討いただきたい。

「中学校スクールバス通学の無料化」に関連して。
スクールバス通学の一部負担はあきらかに間違っている。理事者は
「費用の多くは公費で負担しており、一部負担金は受益者負担として理解いただきたい」と述べた。論理が逆である。過疎であるからこそ手当が必要なのだ。しかも国の助成があるというではないか。
過疎地域の人々は過疎がゆえに余分な出費を強いられる、理事者の論理に従えば過疎地域に暮らす者は我慢しなければならないことになる。中央の論理だ。

 それは過疎に苦しむ地方自治体の、福井県もあわら市も、我々のまっとうな要求さえ国に認められないことに等しい。

 中央の論理を理不尽に感じる我々が、同じ市内の過疎地域の方々への配慮を欠いてどうするのだ。些細な財政負担で済むはずだ。

 ぜひとも「中学校通学スクールバスの無料化」を実現していただきたい。

629.🍙のことで 返信  引用 
名前:河合玉堂    日付:2016/2/23(火) 9:13
小学校の遠足で、母が握ってくれた🍙をもっていった。とろろ昆布だったが今でも味を覚えている。
高校生のころ、 自転車で丹生郡の親戚に行って泊めてもらった。翌日帰りにそこのおばあちゃんが おにぎりを作ってくれた。海苔もとろろもつけてくれなかったが、いろりで串にさして焼いてくれた。そのおいしさは格別で今これが自販機で売られているのがわかる。
日本にはおいしい食べ物がたくさんありましたね。かきもちの天ぷらなど絶品だろうね。トンボさんも和食で回復したのはいい発見でしたでしょう。安易に薬に頼らず先人に学ぶことでしょうね。

628.命の糧 「米」 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/2/21(日) 22:8
 風邪をひいた。熱はさしてないが、胃腸に菌が入ったらしい。嘔吐と下痢で脱水状態になった。食べ物は全く受けつけない。対応は心得ている。悪性の風邪でなければ病院にも行かず、薬も飲まずひたすら寝て、自然治癒を待つ。その間水分補給だけは心がけた。白湯にスポーツ飲料、塩分補給に梅干しを入れたお茶を飲んだ。それが丸一日。

 今日になり症状は和らいだが、ふらつく。朝はお粥と梅干し。それが体力回復を助けた。肉も魚も見るのも嫌だった。だがお粥の白さに心が和み、お米のエネルギーが体内に吸収されるのがわかる。

 夕食は玄米入りのお粥、野菜スープ、塩昆布、薄塩鮭である。ようやく嘔吐感も下痢も治まりつつある。

 明日から通常食に戻れるだろう。数日後には肉も魚も摂れる、その前に酒も飲めるであろう。

 だが私の体力回復に寄与したのは水と塩分、少量の野菜と何よりもお米である。栄養価が高いとされる動物性タンパク質はまったく受けつけなかった。

 お米のありがたさに感謝した。日本人の米消費量が激減し、生産農家が苦労しているが、日本人にとってお米はエネルギー源として最も適している「命の糧」である。

 お米の秘められた栄養価が見直され、消費拡大が推進されたらと思う。
今、私がいちばん食べたいのは魚肉類のグルメ料理ではない。ありふれた海苔おむすび、ゴマおむすびと漬物、お茶である。

627.藤 兼衆師 講演 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/2/15(月) 22:57
 親鸞の説く『本願』は『他力本願』である。では他力本願とは何か。
「阿弥陀仏が衆生を救済する本願のはたらき」と浄土真宗の教義にある。
わかりにくい。他力本願とは、と尋ねた。

兼衆師が説明された。
「例えば、私たちが生まれたのは私たちの意思で生まれたのではありません。大きな意思によって生まれたのです。阿弥陀仏の本願がはたらいたのです。私は平和を求める活動をおこなっておりますが、それは私の意思による行動のように見えますが、大きな力(阿弥陀仏の本願)が私にはたらいているのです。そのことが他の本願がはたらく・・・他力本願なのです」

 浄土真宗が説く『他力本願』の解釈は時代によって異なるであろう。民が抑圧され、自らの意思ではどうにもならぬ時代では、ひたすら『南無阿弥陀仏』と念仏を唱え阿弥陀仏にすがることが『他力本願』とされた。


 己の考えを自由に主張でき、行動できる現代日本に於いて『他力本願』はただ阿弥陀仏にすがることではない。人は大きな意思によって動かされている。大きな意思(浄土真宗では阿弥陀仏の本願)に心を開き、行動することも『他力本願』であろう。

 藤 兼衆師の宗教家としての良心に共感した。願わくば多くの人々が自らの意見を発して欲しい。

626.「平和の願いを形に」 藤 兼衆(ふじ けんしゅう)師 講演 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/2/10(水) 7:6
 平安時代の代表的武人に藤原利仁(としひと)がいます。藤原武門の祖として崇められ、坂井郡に君臨した堀江一族の祖といわれています。彼が一躍武名を高めたのは延暦15年(915年)の下野国(しもつけのくに)高蔵山(栃木県高蔵山)で千有余名の群盗を退治したことにあります。

『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』に記されていますので抜粋して紹介します。

「利仁鎮守府将軍たり。ここに下野国高蔵山の群盗、蟻のごとくに集まりて、千人党を結べり。国の蠱害(こがい。害毒)ただ以てこれにあり。これによって公家忽ち(たちまち)其の人を撰(えら)ばる。天下の推す所はひとえに利仁にあり。異類を討伐すべき由(よし)、糸綸(しりん。朝命)をこうむる。

 当山(鞍馬寺)に参籠(さんろう)し、立願祈願するところなり。すなわち示現(神仏が霊験を示し現す)ありて、鞭を掲げて首途(かどで)し、下野国高蔵山麓に至着す。利仁勝ちに乗じ逃げるを逐(お)う。一人当千し(いちにんとうせん。一人で千人に当る)遂に兇徒を斬りて、刵(きりみみ)万(よろず)ばかりを献す。これを以て天下を振るい、武略海内(かいだい。天下)に喧し(かまびすし)」

 下野国高蔵山で群盗千人余りが徒党を組み反乱を起こした。朝命によって鎮守府将軍・藤原利仁が蝦夷(えみし)鎮圧に向い、下野国で賊を追う。少数で多数の賊に当り、遂に群盗を斬り、その耳を削ぎ落し朝廷に献上した。その数は万にも達し、利仁の武略は天下に広まったという記述です。

 鎮守府将軍とは陸奥国(東北地方)に置かれた鎮守府(軍政府)の長官のことです。

 古代、陸奥国は蝦夷が住む国でした。大和朝廷の侵略により争いが起こりました。延暦13年(794年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)との戦いに敗れた蝦夷は俘囚(ふしゅう。捕虜)となり、陸奥国は大和朝廷の支配下に置かれました。北海道に逃れた蝦夷もいました。陸奥国に留まった俘囚も、東国の開墾のために送り込まれ俘囚もいました。俘囚はなかば奴隷でした。

 これらの国々には国司が派遣され国衙(こくが。地方政庁)で政務を執りました。彼等の主要な任務は税を徴収し朝廷に納めることでしたが、定められた上納義務を果たせば残りは国司の取り分となりました。多くの国司は蓄財に走り、俘囚は過酷な労働を強いられたのです。圧政に苦しんだ俘囚の反乱が頻発するようになりました。都では彼等を群盗の徒と呼びました。

 異類とは「種類の異なる」という意味の蔑視表現です。おそらく蝦夷を指すのでしょう。俘囚は人として扱われませんでした。「耳を削ぐこと万」は誇張ですが、蝦夷が無差別に殺戮されたことを意味しています。

 ですが都人にとって蝦夷、俘囚とは忌むべき対象でした。彼等が土地を奪われ、迫害されても、同情されることはなく、成敗した利仁が称賛されたのです。戦勝は美化され、残虐行為も正当化されたのです。人々の偏狭さと無知ゆえでした。

 1100年前のことですが人間の野蛮さと戦争の本質を表しています。人は利のために争う、偏狭さと無知ゆえに争いを正当化することが多いのです。昔も現代も変わりません。

 今回、あわら市九条の会では平和を考える講演会を企画しました。

 2月14日(日)13時30分より 金津本陣IKOSSA 3階第一研修室にて

 講演「平和の願いを形に」講師 あわら市福円寺住職 藤兼衆師
(武力によらぬ平和を願う宗教者の会事務局長)
 参加費 300円
 多数のご参加をお願い申し上げます。

625.堀江一族の闇 返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/1/31(日) 13:3
「新釈 堀江一族」に取り組んでいますが、調べていくうちに伝承とは異なる史実が明らかになります。

最初に藤原武門の祖、堀江氏の祖でもあるのですが、武勇の誉れ高い藤原利仁(としひと)についてです。利仁将軍と崇められ、各地で彼の末裔であることが誇りとされています。斎藤氏、加藤氏、後藤氏、堀氏、林氏、井口氏、富樫氏など利仁末裔とされる姓は数多あります。

 敦賀の豪族、有仁(ありひと)が利仁を婿養子に迎えます。有仁は舅の立場ですが、とても手に負えるような婿ではありませんでした。利仁は敦賀有仁氏の財力により都でのし上がっていきます。

 有仁氏の娘婿でありながら、彼の正室は有仁の娘ではなく、桓武天皇の孫・輔世王(すけよおう)の娘、側室は丹波国の豪族・伴統忠(とものむねただ?)の娘です。

 正室の輔世王娘との間には公統(きんおさ)、叙用(のぶもち)が生まれ、側室、統忠娘との間には有頼(ありより)が生まれています。その他に9名(11名とも)の男子がいますが、いずれも生母は不明です。敦賀有仁娘の子は見当たりません。彼女の立場はと、考えざるを得ません。利仁が敦賀有仁の婿養子となったのは財力を手に入れるためだったのでしょう。彼は鎮守府将軍(東国の蝦夷族鎮圧を任とする)であり、盗賊を捕縛、反乱を鎮圧したとの伝説から英雄視されてきたのでしょう。

 家督は正室輔世王娘の子・叙用が継ぎ、斎藤姓を名乗ります。彼の孫、伊傳(よしただ)が越前の支配を強めていくのですが、此の地には三国氏という古代よりの豪族が君臨していました。

 三国氏の前姓は三尾氏といわれ、男大迹王(おおどのみこと。継体天皇)と三尾氏娘との間に生まれた第二皇子が椀子王(まろこおう)です。当時三国氏は坂井郡のみならず、足羽(福井)を含めて越前のほぼ半分を支配していました。越前で男大迹王を支えた勢力が三国氏でした。

 越前では新興勢力である藤原氏(斎藤氏)が此の地を支配するには三国氏を含め土着豪族を従わせねばなりませんでした。越前国司の立場を利用して彼等を懐柔させたのです。利仁の父、時長が秦豊国(はたとよくに)の婿養子となったのも、懐柔策と見てよいでしょう。豊国娘との間に生まれた子が利仁でした。利仁も敦賀の豪族、有仁氏の婿養子となったのもそうでしょう。

※ 時長の父、高房が越前の国司に任じられ、息子の時長を秦豊国氏の婿養子に出した。秦氏は坂井、丹生、足羽を地盤とする豪族で、三国氏と地盤が重なる。

 藤原氏(斎藤氏)の懐柔にも応じず、対立したのが越前豪族の名門、三国氏でした。

 越前斎藤氏(祖は藤原叙用)と三国氏との対立が深まり、伊傳の子・為延(ためのぶ)と甥(兄重光{加賀斉藤氏の祖}の子)貞正(さだまさ)が三国行正(ゆきまさ)を京都東山で暗殺します。

※為延は居貞親王(きょさだしんのう。後の三条天皇)の帯刀(たてわき。警備武官)の経歴がある。後に疋田斎藤氏の祖となる。貞正も滝口(たきぐち。天皇最身辺の警護役)の経歴があり、後に清和源氏の祖、源満仲(みつなか)に仕えている。帯刀、滝口は武勇に優れた武者から選抜される。両者とも希代の猛者であった。

 朝廷は検非違使(天皇の命により犯罪人を捕縛する役人)に武芸者を加えて逮捕に向かわせたのですが捕えられることはありませんでした。

 当主が殺害された三国氏は衰退し、越前斎藤氏が勢力を拡大させました。

 次に斎藤氏が堀江郷に住し、郷名から堀江氏を名乗ったとされる伝承です。これにも私は疑問を感じています。

 斎藤伊傳の系譜から数多の姓が生まれていますが、堀江氏の姓は見当たりません。伊傳の末裔が堀江郷に住し、堀江氏と称したとすれば、系譜に残るはずです。斉藤姓から堀江姓に改姓したとは考えにくいのです。

 ただ、これをもって堀江氏が藤原(斎藤伊傳)の末裔を詐称しているとはいえません。

 考えられるのは元々堀江郷の有力豪族であった堀江氏に斎藤氏の庶系(庶子の系統)が養子として入り込んだ場合です。

あるいは斎藤氏の娘(庶系)が堀江氏に嫁ぎ、生まれた子が堀江一族の家督を継いだ場合です。
又、斎藤氏有力家臣が斎藤氏の娘(庶系)を嫁とし、堀江郷に住し、堀江氏を名乗った場合です。

 いずれも斎藤氏(伊傳)の系譜に堀江氏の名が記されることはありません。堀江氏が斎藤氏(藤原氏)末裔を称することも間違いではありません。。

 これらを含めて伝承では触れられていない史実を掘り起こしています。それを裏付けするには、ひたすら史料を集めて読むしかありません。その作業に没頭しています。

 

624.李白 阿倍仲麻呂を悼む  「哭晁卿衡」  返信  引用 
名前:とんぼ    日付:2016/1/23(土) 20:21
原文
  哭晁卿衛

 日本晁卿辭帝都 征帆一片遶蓬壺
 明月不歸沈碧海 白雲愁色満蒼梧  

読み下し文
  
  晁卿衛(ちょうけいこう)を哭(こく)す

 日本の晁卿(ちょうけい) 帝都を辞し
 征帆(せいはん) 一片(いっぺん) 蓬壺(ほうこ)を遶る(めぐる)
 明月(めいげつ)は歸らず 碧海(へきかい)に沈み
 白雲 愁色(しゅうしょく) 蒼梧(そうご)に満つ



 衛尉卿(えいいけい)の晁衡(ちょうこう)を悼み哭(な)く

日本の晁卿(ちょうけい)は 帝都長安に別れを告げ
進みゆく一艘の小船は 東海の蓬壺(ほうこ)を遶(めぐ)って消えた
明月のように輝かしかった君は 祖国に帰りつけないままに碧(あお)い海に沈み
悲しみの色にそまった白雲が 蒼梧(そうご)の山に立ちこめる

哭・・死者を大声で哭(な)いて悼む行為。死者への儀礼。
晁衛(ちょうこう)・・阿倍仲麻呂の中国名。
衛尉卿(えいいけい)・・仲麻呂が753年に中国から帰国する際、秘書監兼衛尉(兵器及び儀仗で使用する武器等を掌る衛尉寺)の長官(卿)であったことから、こう呼んだ。
帝都・・都長安。
征帆(せいはん)・・旅行く船。
蓬壺(ほうこ)・・東海に在ると伝えられた仙山 蓬莱山をさす。
蒼梧(そうご)・・中国神話に登場する舜帝(しゅんてい)が巡幸して没したとされる伝説の仙山。

 阿倍仲麻呂(56歳)が753年冬、遣唐使藤原清河らと同船し帰国の途中に琉球で遭難した。友人である李白は悲報に接し嘆きの詩を詠んだ。だが、仲麻呂は生存していた。船は安南(ベトナム)に漂着し、彼は再び長安に戻り唐朝に仕えた。その後、帰国することなく、770年正月に長安で没した。73歳。

 仲麻呂が帰国送別の宴席で詠んだ歌が百人一首に選ばれている。

 天の原 ふりさけみれば 春日なる三笠の山にいでし月かも

 たまたま読んだ「李白詩選 松浦友久編訳」の仲麻呂追悼詩です。

「堀江一族」は悪戦苦闘していますが、これまで語り継がれてきた堀江一族とは異なる解釈の「新釈 堀江一族」に取り組んでいます。


ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 >> >| 

無料アクセス解析

アクセス解析の決定版!無料レンタルで最大100ページ解析!

   投稿KEY
   パスワード

EZBBS.NET produced by InsideWeb