[ ホームページ ] [ 携帯用URL ]
GONsan's “気まぐれ掲示板”

ご訪問有難うございますm(_ _)m
せっかく訪れて頂きましたのですから、何か足跡を記して頂けましたら幸いです(^-^)/


[ EZBBS.NET | 新規作成 | ランキング | オプション ]
iモード&(絵文字)、au対応!ケータイからも返信できる無料掲示板!
名前
 E-mail 
題名
内容
投稿KEY    タグ有効 改行有効 等幅フォント
URL



8128.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(17) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 23:51
 本能寺を後にしますと、御池通りを鴨川に掛かります御池大橋方向へ…
 その途中で眼に入りましたのが「此付近加賀藩邸跡(このふきんかがはんていあと)」の表示板。ふ〜ん、そぅなんですねぇ〜ここに加賀藩邸が存在しましたようです(^.-)☆
 そしてまた暫く進みますと「夏目漱石の句碑」が…

 ◆加賀藩邸跡

 加賀藩前田家の藩邸は、天明8(1788)年焼失し、その後再築された。慶応2(1866)年、鳥羽伏見の戦に出兵したが、幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され、一時は府知事邸となっていたが、太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。

 ◆御池大橋西詰の漱石句碑

 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
 春の川を 隔てゝ 男女哉
 -- 漱石 --

 京都ネタを紹介しているいろいろなサイトでもたびたび取りあげられている有名なシロモノなのだが、少しだけ掘りさげてみる。
 まずは刻まれている俳句それ自体について。俳句というとパブ犬的に五七五と言ってしまうが、この句はそうした定型には沿っていない。内容からなら六・四・八の自由律であり、定型風に捉えるなら、春の川を(6)隔てゝ男(7)女哉(5)となって第一句の字余りである。字余りとなる「を」が必要だった理由はよくわからないが、もしかすると推敲すれば削られてしかるべき一文字だったが、即興の一句だったのでこうなったというのが本当なのかも知れない。作られた時の事情が詳しく紹介されていることも併せて考えると、この句は、これだけで自立しているというよりはシチュエーションと合わせて味わう一句ともいえる。

 そんな中身はさておき、気になるのは句碑のある場所についてである。シチュエーションが云々と言ったが、傍らに設置されている駒札によれば、句碑のある御池大橋西詰の南側は「句にゆかりの現地」らしい。当時漱石が投宿していた北大嘉という宿がこの場所にあったということなのだ。大友のお多佳さんとちょっとした諍いごとがあったことを踏まえ、鴨川を隔てた大友へ送った一句がこれで、祇園白川と木屋町という鴨川を間においた位置関係に味が出てくるわけである。
 ただし、実は駒札には「木屋町御池の旅館『北大嘉』」とあるだけで、句碑のある御池大橋西詰の南側がピンポイントで北大嘉の場所だったとは書いていない。御池通が広くなったのや御池大橋が架けられたのは、漱石の時代よりはるか後のことなので、当時の地形を現在の道路の形状とぴったり重ね合わせるのは難しいことを考えると、だいたいこのあたりということで設置されたのだろう。

 …と、WEB上には、それぞれこんな記載がありました(^.-)☆

 鴨川の河原を覗いてみますと、早朝から若者の皆様のグループが…何の集まりなのでしょうねぇ〜
 御池大橋から少し戻り、今度は「木屋町通」を歩いてみます事に…そして「四条通」から鴨川の河原へ…
 木屋町通とは打って変わって、ノンビリとした散策となりました(^-^)//"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8127.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(11) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 23:39








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8126.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(16) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 23:22
 それでは、本能寺を拝観です(^.-)☆
 境内に入りますと、まず眼に入りますのが本堂です。仲々立派な本堂であります。

 ◆本堂

 工学博士天沼俊一先生の設計になる。室町時代の枠を集めた木造大建築。7間7面単層入母屋造本瓦葺、総建坪587.4u(178坪)の総けやき材で創立当時の面影を残す。

 ・本能寺の縁起

 本能寺は景勝の地京都鴨川のほとりに法華宗の法灯を掲げ続けている。しかし本能寺が日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山であることは以外と知られていない。
 本能寺は日隆聖人を御開山と仰ぎ『法華経』の根本義と日蓮大聖人の真意を説き明かし、お題目を唱えて信じ行ず大霊場である。

 日蓮大聖人の教えの真意は、『「法華経」の本門八品に説かれた上行所伝本因下種の「南無妙法蓮華経」に全身全霊を捧げ、本門のお題目を信じ唱えるほか私どもの成仏の道はない』という教えである。
 人々に「南無妙法蓮華経」を信奉させ、口に唱えさせることが日蓮大聖人の生涯の念願であった。
 御開山の日隆聖人は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺(現在の妙顕寺)の綱紀の粛清に務めたが志を遂げられず同寺を去った。
 そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めた。

 本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用している。
 その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺・本能寺という寺名にした。また現在能という寺をに替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌いの字に替えたものである。
 上杉本の「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれている。

 ◆信長公廟(本能寺)

 信長の三男信孝は、本能寺の変の直後、信長の遺骨を収集。本能寺を信長の墓所と定め、信長所持の太刀も納めた。信長の墓所は、玉鳳院(妙心寺塔頭)、総見院(大徳寺塔頭)、阿弥陀寺(寺町通今出川上ル)、大雲院(円山公園南)にもある。

 ◆本能寺の火伏のイチョウ

 河原町四条から河原町通りを北に歩くと左手に「本能寺のイチョウ」の案内板があります。細い路地を抜けるとビルの谷間の狭い空間に「本能寺のイチョウ」がありました。このイチョウは、「火伏せのイチョウ」と呼ばれており、天明の大火(1788年)の際、猛火に追われた人々が境内に身をひそめていた折、突如このイチョウの木から勢いよく水が噴出し、木の回りに集まった人々を救ったと伝えられています。
 本能寺は、歴史上名高い織田信長が明智光秀の謀反により自刃したあの「本能寺の変」で有名な法華宗の大本山で、応永22年(1415年)に日降聖人により建立されました。しかし、本能寺の変をはじめとする五度の焼失と七度の再建を繰り返し、現在の堂宇は1928年の造営です。

 ふ〜ん、信長の三男信孝は本能寺の変の直後、信長の遺骨を収集したのですネ…








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8125.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(10) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 22:53







人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8124.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(15) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 22:41
 P.M.6:30頃から始まりました三嶋亭での夕食も、約2時間でお開きです。さすがに美味しく戴けまして、皆さん一様に満足顔。
 三嶋亭を出ますと宿泊場所であります「ホテルグレイスリー京都三条」に戻りますけど、GONsanは周辺を少し散策となりました(^.-)☆

 寺町通を少し南下しますと「新京極六角公園」と言う小さな公園にベンチが…

 ◆新京極六角公園、Wi-Fiスポット
 三条通から寺町通りを市場へ歩いていた途中、噴水やベンチが置かれた広場があった。1989年にできた新京極六角公園。Wi-Fiスポットも完成、街歩きで疲れたときに一息つくのには好都合だ。(WEB上の記載より)

 ここで缶コーヒーでもすすろうかと自販機に向かいますと、足元に違和感を抱き路面に眼を移しますと、なんと一羽のスズメが(^_^)v
 何か食べ物をねだってGONsanの足元をウロウロ(^-^)
 実に慣れています感じで、人見知りなんぞ微塵もありません。GONsanの動きます方に付いて来ますから、本当にビックリ。何か食べ物でもあれば与える事が出来ますのですけど、あいにく何にもありませんから…
 ですが、うまいこと食べ物を見つけて何か食べています。この辺りの事情を熟知していますのかも分かりませんねぇ〜

 とにかくビックリです。こんな街中に野生のスズメがシッカリと暮らしていますのですから(^-^)
 この様子を数枚画像に納めましたけど…ですが、こんな場所で拾い食いの日々を過ごしておりますと、決して長生きは出来ないのでしょうけどネ…

 ホテルに戻りますと、まずは喫煙コーナーで一服。そして部屋に戻り入浴後、いつもより早めの就寝となりました。
 そして、翌朝は、A.M.5:00に起床。洗顔後、5:30〜早朝散策開始となりました。
 まず向かいましたのが本能寺。

 ◆本能寺

 本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。

 ・歴史

 本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである。
 寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。
 日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。

 その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。

 ・日承上人・本能寺の変

 天文16年から17年(1537年-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。天文14年(1545年)、四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁した。
 日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。

 本能寺は、早くから種子島に布教していた。このことから鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。
 織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていた。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲され、襲われるという本能寺の変が起きて、その際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が自害したとしているが、遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。

 ・現在の場所への移転とその後

 天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられた。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた。

 天明8年(1788年)の天明の大火で焼失するが、天保11年(1840年)日恩上人によって再建する。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。

 現在の本堂は1928年(昭和3年)に建てられた。

 …と、こんな本能寺。今回の早朝散策は、この本能寺からとなりました(^-^)//"









人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8123.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(9) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 22:23
 緑町公園内を一通り巡りましたので、次は大道芸を観ます事に致します。
 で、パレードコースに向かっておりますと、「歩兵第四十一聯隊跡」の石碑の前ではミニコンサートが…
 この石碑を眼にします度に「福山は、何故、空襲を受けたのだろう?」との想いも湧きますGONsanです。何気なく、この素朴な想いをWEB上で検索してみましたら、ふん、ふん、こんな記載が出て来ましたネ。

 ◆なぜ福山が空襲を受けたのだろう?(当時は地方の小さな市だったのに)

 福山には、軍事施設(陸軍歩兵第41聯隊、海軍航空隊)があり、軍需工場(三菱電機、帝国染料)がありました。そして、駅を中心に住宅密集地となっていたことも理由の一つです。
 福山空襲の10 日ほど前に、B-29 が空襲予告ビラ(伝単)約6万枚を撒きました。「アメリカの敵は、あなた方ではない。勝ち目のない戦争を長引かせないために、軍事施設や軍需工場を狙って…」といった内容でした。

 …と、こんな記載がありました。う〜ん、そぅいえば、そんな事を聴きました記憶もありますねぇ〜

 パレードコースにヤッて来ますと、パレードの開始時間も近付いて来ましてカラーコーン(三角コーン)を並べておられますスタッフの皆様が(^.-)☆
 その傍らで大道芸の真っ最中。この様子を横目に、GONsanはバラ公園にと向かうことになりました。ローズパレードは、いつもバラ公園近くで見物ですから(^-^)//"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8122.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(14) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 22:11







人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8121.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(8) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 22:0






人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8119.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(13) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 21:45
 最勝院とお別れし正門方向に進みますと、鳳凰堂に入られます方の列が…鳳凰堂に入りますには別料金を要しますのでGONsanはパス(^-^)
 そして眼に入りましたのが「扇之芝」でありました。「扇之芝」をWEB上で検索致しますと、

 ◆源頼政が最期を遂げた扇の芝・平等院

 平安時代末期に権力を握っていたのは、平家一門でした。しかし、大いに栄えた平家もやがて源氏によって滅ぼされることになります。そのきっかけとなった史跡が京都府宇治市の平等院に今も残っています。

 ・源頼政の挙兵

 平家滅亡のきっかけを作ったのは、源頼政でした。頼政は、平治の乱(1159年)で、平清盛に味方し、同族の源義朝を倒しました。
 この戦いの後、平家は全盛期を迎え、源氏は頼朝が島流しにされるなど、歴史の舞台から長い間、姿を消すことになります。平家に味方した頼政も、大して出世することなく、70歳を過ぎる老齢となっていました。
 治承4年(1180年)のある日。源行家が頼政のもとに訪れます。行家は、以仁王(もちひとおう)を担ぎ上げて、平家追討のために挙兵しようと頼政に持ちかけました。
 頼政は、以前に我が子の仲綱が平宗盛に馬鹿にされたこともあり、以仁王とともに挙兵することを決心します。

 しかし、この挙兵は直ちに平家の知るところとなり、頼政は以仁王とともに奈良興福寺に逃げようとしましたが、宇治川で平知盛率いる平家軍に追いつかれました。
 頼政は、押し寄せてくる平家の大軍から以仁王を守るために宇治橋で応戦します。しかし、善戦空しく頼政軍は平家に敗れました。
 体に流れ矢を受けた頼政は、宇治橋からほど近い平等院へと向かいました。「もはやこれまで」と悟った頼政は、子の仲綱とともに芝生の上で自害して果てます。

 埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける

 上の歌は、頼政が詠んだ辞世の一首と伝えられています。そして、頼政が自害した場所とされる芝生が平等院の境内に残っています。そこは、「扇之芝」と呼ばれています。
 その名のとおり、扇状の芝生となっています。また、平等院の子院の最勝院には、頼政の墓もあります。
 そばには、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の墓と書かれた看板があり、「平清盛の横暴に憤り高倉宮以仁王の令旨(りょうじ)を奉じ平家打倒の義兵を挙ぐ」と記述されています。
 さらに平等院内の浄土院には、頼政に仕えた太敬庵通圓の墓があります。

 …と、こんな歴史のあります「扇之芝」のようです。

 平等院の正門を出ますと、すぐ左手にどなたかの像が存在します。で、近付いてよくよく観ますと「辻利右衛門像」と記載。
 これまたWEB上で検索です。

 ◆平等院正門の横「辻利右衛門像」

 辻利右衛門像(つじりえもんぞう)、宇治茶の老舗「辻利」の創業者。玉露製法の確立と茶櫃の考案により宇治茶の復興に大きく貢献した。その功績により緑綬褒章を受賞、平等院正門横に銅像が建立された。

 ・場所 京都府宇治市 平等院正門の横
 ・アクセス JR宇治駅から徒歩8分
 ・駐車場 なし

 「辻利」といえば、京都観光に訪れる人達にとっては茶寮「都路里」のほうが有名かもしれませんが、れっきとした宇治茶の老舗。抹茶をふんだんに使ったスイーツは人気ですね。その母体となる宇治茶の老舗が「辻利兵衛本店」です。その創業者が辻利右衛門です。この銅像は平等院の正門横に立っています。

 …と、こんな記載。ふ〜ん、こんな人なんですねぇ〜
 そして、右に隣接します石碑。仲々読みにくいのですけど、多分「宇治製茶記念碑」とでも書いてあるのでしょうか…「宇治製茶記念碑」で検索しますと、うん、うん、出て来ましたネ(^_^)v
 ⇒



8120.Re: 5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(13)
名前:GONsan    日付:2018/6/16(土) 21:46
 ⇒
 ◆宇治製茶記念碑

 第1回製茶共進会特別賞受賞を記念して建立された宇治製茶記念碑(平等院門前)。毎年、製茶記念日(10月1日)に製茶記念式典と茗魂祭が行われる。

 …と、こんな石碑のようでありました(^.-)☆
 平等院とお別れしますと、また平等院表参道をキョロキョロしながら宇治橋方向へ。宇治橋を渡り終えますと眼に入りますのが「東屋観音」でありました(^.-)☆

 ◆東屋観音(あずまやかんのん)

 京阪宇治駅直近の好立地な史跡です。元は南西20mのところにあったそうですが、宇治橋架け替えに伴う道路拡張で、宝篋印塔・灯籠と共に現在地に移されています。
 東屋観音と呼ばれる石造聖観音菩薩坐像は、鎌倉時代の作。朴訥な感じなんですけど、蓮華を持っていたり造形はよくわかる感じ。地域で分けるのも変ですけど、奈良の石仏のように味わいがありました。剥き出しなのがちょっと不思議なくらい。
 でもお堂に入れちゃうとよく見えなくなるので、現状は有難い状態にあるとも言えます。個人的にちょっと好きになっちゃった石仏さんです。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました。

 この「東屋観音」近くでバスに乗り込み、この日の宿泊場所であります「ホテル グレイスリー 京都三条」に向かいます。
 そして、本能寺前でバスから下車し、少しばかりテクテク歩きとなりました。今夜の夕食場所となります『三嶋亭』を横目にホテルにと到着。
 ユックリします時間も有りませんで、ほどなく、先ほど素通りしました『三嶋亭』へと向かう事となりました(^.-)☆

 ◆三嶋亭について

 明治の文明開化華やかなりし頃からの、140余年にわたる伝統を守るすき焼の老舗。昔から変わらぬ、三島亭の風情。日本のすき焼店の草分け的存在として140余年にわたる歴史を誇り、有名人や海外の通の間でも知られるようになりました。
 京都・寺町三条の賑やかな界隈に建つその姿は、まるでタイムトリップしたかのような趣ある店構え。京都らしい京町家造りの店構えは界隈のランドマークでもあり、その佇まいで歴史を感じていただけます。
 数寄屋造りの店内に足を踏み入れると、四季折々の表情を見せる坪庭や欄干、天井、格子などそのほとんどが明治の創業当時のままとなっており、お料理はもちろんですが、華やかかりし文明開化時代の歴史と伝統を感じる空間も、ゲストとの話題には事欠きません。

 ・はじまりは明治六年 初代三嶌兼吉が横浜で牛鍋を学ぶ。

 さる御公家侍に仕えておりました初代三嶋兼吉は、その妻“てい”と共に横浜で牛鍋を学び、明治六年、京に戻り、現在の地、寺町三条で「三嶋亭」を創業いたしました。
 それ以来、140余年その味を守り続け、明治、大正、昭和、平成、現在に至り、五代目となります。今も創業当時と変わらぬ佇まいで産地にこだわらず、厳しい目で選びぬかれた牛肉を独自の方法で熟成させ、三嶋亭こだわりの焼き方でお召し上がりいただいております。

 ・目にも美味しい霜降り。伝統の美味を守る意気。

 大自然の中で丁寧に丹精込めて育てられた黒毛和牛を、代々受け継いできた三嶋亭独自の目利きにより全国から厳選。芳醇な味わいの贅沢な霜降り肉は、秘伝のすき焼や水だき、オイル焼でじっくりと味わえるのは、まさに至福。さらにみそ漬けやしぐれ煮も用意され、牛肉のおいしさを多彩な料理で存分にお召し上がりいただけます。
 看板料理であるすき焼は、炭火に近い効果を得られる電熱器を使用し、厳選した黒毛和牛のうま味を存分に引き出している。また、割下は長い伝統の中で五代目がさらに進化させ完成させた秘伝のレシピ、創業当時から何ひとつ変わらぬ伝統が織りなす味わいは、長年にわたり多くの常連を魅了しています。

 ・代々の当主の生き様を自らの仕事に映し出す。

 代々受け継いだ精神を、料理人としての心と調理方法をいつも胸に留め、三嶋亭の伝統を受け継ぐ料理人として、枠にとらわれない進化をつづける料理人として、「進化し続けること」に常にこだわっています。
 五代目・三嶋太郎は、三嶋亭の伝統を守りつつ、さらにその上を目指すべく、八年前より日本料理の修行を始め、加えて茶の湯と生け花の稽古を続けることで、すき焼きに前菜数品とお菓子、薄茶がつく懐石仕立ての「花コース」を考案。
 ゆるりと時の流れる、明治香る優しい雰囲気の中、心に残るひとときをお過ごしください。

 …と、こんな『三島亭』でありました(^-^)//"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8118.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(7) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/10(日) 18:54
 ローズアリーナ内でのバラ鑑賞を終えましてからは、いつものようにノンビリと眼に入ります景観を画像に納めながら、とりあえず緑町公園内を一周です(^.-)☆
 こぅして画像に収めておりますと、毎年、大概、似たような光景となりますネ。
 ただ、感じます事は、今回のばら祭りに訪れておられます方々は、昨年よりは少ないようにも感じられます。

 緑町公園内の野外ステージ裏のせせらぎにも大勢の方々が、例年、思い思いに過ごしておられますのですけど、今回は閑散としておりました(^-^)
 う〜ん、福山ばら祭りもソロソロ飽きられましたのかも…と、こんな危惧が…
 こんな事を感じますのはGONsanのみなのかも分かりませんけど…

 そぅそぅ、ローズアリーナ裏に存在しますプールでは、高飛び込みの練習が行われておりました。
 「んっ!?」と覗いてみましたけど、昨年までは気付きませんでした。昨年も、ばら祭り開催中も練習しておられましたのか否か分かりませんけど、今回初めて気付きましたGONsanです。
 で、数枚パチリ。
 この飛び込み台、上から下を覗きますと随分高さがありますのでしょうけど、どの位の高さなのでしょう…
 早速、WEB上で検索です。

 ◆高飛(び)込み
 水泳の飛び込み競技の一。高さ5メートルまたは10メートルの固定した台から水中に飛び込み,その間の動作と空中姿勢の美しさを競う。

 …と、こんな記載がありました。ふ〜ん、高い方は10mですか…
 いゃいゃ、GONsanなんぞは、上から下を覗き込むだけで恐怖感を抱きますのでしょうねぇ〜
 次から次に、高い方からいとも簡単に飛び込んでおられましたけど、暫し見とれておりました(^-^)//"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8117.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(12) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/10(日) 1:13
 浄土寺の拝観を終えねまた正門方向に向かいますと、次に眼に入りましたのが「源三位 頼政公墓所」の案内板でありました。なら、ここにも立ち寄らなくては(^.-)☆
 不動院に入りますと、その境内の一角に「源三位 頼政公墓所」が…
 早速、最勝院に入ってみる事に致しました。不動堂は最勝院の本堂のようですネ。

 ◆宇治平等院・最勝院

 治承4年(1180年)、以仁王の令旨…平家打倒の文書が出され、源頼政公もこれに応じます。しかし計画は事前に露見。
 奈良に逃れようとした以仁王勢は宇治平等院で平家の追討軍と戦うこととなりました。『平家物語』によれば以仁王側は千騎あまり。二万騎以上の平家方には多勢に無勢でした。
 この戦いで頼政公は息子や養子など多くの味方を失い、ついに自害。享年77。
 頼政公最期の地とお墓は宇治平等院内に今も残っています。平等院の表門拝観受付入ってすぐ左側に小さな道があります。その奥、観音堂の横に緑の一角が。

 ◆源頼政

 源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。
 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。

 …と、こんな歴史の記載がWEB上にありました(^-^)/"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8116.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(6) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/8(金) 23:33
 ローズアリーナ内では丁度、「パラコンテスト審査中」でありましたけど、どの作品も凡てGONsanには素晴らしい出来栄えに見えました(^_^)v
 観てる者は実に楽しいのですけど、創作されます方々はもっと楽しいのでしょうねぇ〜
 イィご趣味ですねぇ(^-^)/"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8115.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(11) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/8(金) 22:9
 ミュージアム鳳翔館で数々の国宝や文化財を眼にしました後は、鳳凰堂の裏手を通って正門へ向かいます。
 が、その際に鳳凰堂の丁度裏に存在します「浄土院」に立ち寄りとなりました(^.-)☆

 WEB上で検索致しますと、浄土院に関しましてのこんな記載が…

 ◆宇治 平等院塔頭・浄土院

 平等院ミュージアム鳳翔館を見学して南西角にあたる浄土院にいった。
 それによると浄土院は平等院の塔頭で1492〜01(明応年間)年に、浄土宗の栄久(えいく)上人が開創し寺と伝わる。
 本堂に礼拝、表に波型の台座に舟に乗る“救世船乗”という観音がある。今昔、旅の安全を無事に祈願するよう祈っている。養林庵書院(重文)は、数々の古い宝が資料として残されている。
 旅人の航海の無事を祈るという船乗観音また堂内には木造帝釈天立像(平安時代後期)や木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期〜)、定朝の師である仏師康尚(こうしょう)の作がある。和漢朗詠集下断簡「平等院切(平安後期)」は、巻下雑部のうち、禁中・古京の全文十五行文、筆者は源頼政とされ深い関係があるという。

 …と、こんな記載が。

 浄土院境内からも鳳凰堂をパチリです。羽を広げた左右の鳳凰が大変キレイでありました(^_^)v








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8114.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(4) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/8(金) 0:1
 ローズアリーナ前の広場では、今年もまた潟Vギヤ精機製作所sanの蒸気機関車がチビッコ達を楽しませておりましたネ(^.-)☆
 この方々を横目に、GONsanはローズアリーナ内のバラを鑑賞となりました(^-^)/"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8113.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(10) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/7(木) 23:1







人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8112.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(3) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/6(水) 21:20
 バラ公園内を一通り廻り抜けて行こうとしますと、公園の一角で大道芸が熱く始まっておりました(^.-)☆
 少しだけ拝見し、サッサと退散のGONsanです。

 歩道橋を渡ります際にJA福山を見下ろしますと、ここも『JAふれあい祭2018』が賑やかに開催されておりました。ステージのこの男性は、どなたでしたのでしょうねぇ〜







人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8111.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(9) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/6(水) 20:29
 う〜ん、ここもまた、結構、観光客の皆様がおられます(^.-)☆
 10円玉硬貨でお馴染みの「平等院」、WEB上で検索してみますと、

 ◆平等院

 平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。

 ◆歴史

 --- 平等院の創建 ---

 京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫たり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。

 ◆近代以降の平等院

 現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。宗教法人平等院の設立は昭和28年(1953年)である。

 1990年代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータグラフィックスによる再現などが行われている。平成13年(2001年)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館(新建築 平成13年(2001年)9月号)の設計で、日本芸術院賞を受賞している。

 平成8年(1996年)から平成9年(1997年)にかけて、鳳凰堂の右後方に15階建てのマンション2棟が建ち、見る方向によっては鳳凰堂の背景になってしまっている。創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが景観法施行前の平成14年(2002年)に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。当面の対策として平等院境内にクスノキが植樹されており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されている。

 平成24年(2012年)9月3日から平成26年(2014年)3月31日まで屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われた。この間、鳳凰堂内部の観覧は出来なくなっていた。平成26年(2014年)10月1日、落成式が行われ修理工事が完了した。

 …と、こんな平等院であります。

 正面から入場し鳳凰堂の横顔を観ながら正面へ。格子の円窓から覗く阿弥陀如来坐像のお顔を拝み、その後は阿字池に沿って歩きミュージアム鳳翔館の入口へ。間近で数々の国宝や文化財を堪能したら、鳳凰堂の裏手を通って正門へ。
 こんなルートでとりあえず散策開始となりました。浄土式庭園と鳳凰堂…大変キレイでしたネ(^-^)//"








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8110.5/19〜5/20の2日間は「第51回福山ばら祭2018」の開催でした(^.-)☆(2) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/5(火) 22:52
 バラ公園には、いつものように道三川の流れに沿って散策です(^.-)☆
 都心部にこんな清らかな流れが存在しますと、何となくホツとしますし大変落ち着きます(^_^)v
 清らかな流れ…とは言いましても、何となく年々濁ってきていますようにも感じます。
 10年ばかり前には、もって澄み切った流れでしたような…ここ近年は、道三川の手入れをされますのも大変なのかも分かりませんねぇ〜

 道三川を辿って行きますと、自然にバラ公園にと到着です(^.-)☆
 ここではさすがに、美しいバラにカメラを向けます方々の多い事(^-^)

 例年ですと、ばら祭り開催時には、既にしおれ始めていますバラも多々ありますのですけど、今回は丁度見頃でありました\(^o^)/







人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/

8109.5/12〜5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(8) 返信  引用 
名前:GONsan    日付:2018/6/5(火) 21:28
 とにかく、時間に追われてジックリ参拝出来ませんのが残念です。
 それにカメラを向けます被写体にも事欠きませんけど、そんな時間も勿論ありません(^-^;あっちをパチリ、こっちをパチリ…で、早足での参拝を余儀なくされましたようですねぇ〜

 伏見稲荷大社とお別れ致しますと、次は宇治の平等院。
 ここも直近で訪れましたのは、既に16〜7年前の事になりますでしょうか…その際には平日に訪れまして、観光客も少なくてユッタリと境内を散策しましたように思いますけど、さて、今回はどぅなんでしょうねぇ〜








人気blogランキングへ(^.-)☆
日本全国通過旅へ(^-^)/


ページ: << 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 >> >| 

無料アクセス解析

アクセス解析の決定版!無料レンタルで最大100ページ解析!

   投稿KEY
   パスワード

EZBBS.NET produced by InsideWeb