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GONsan's “気まぐれ掲示板”

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9010.9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(5) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/21(土) 10:18








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9009.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(51) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/21(土) 9:26
 滞在ホテルでは火災が発生しましたようで、慌てて貴重品のみを手に建物外に避難したとの事でした。幸いにも被害はありませんようで一安心。
 移動し別の滞在ホテルでもまた、同様の火災がありましたとか…いずれも部分火災で、新婚ご夫婦には特に被害もありませんでしたとか…

 ◆ワイキキのホテルで連続不審火による火災が発生

 --- 2019.08.07 日刊ローカルニュース ---

 ホノルル市消防局は、4日(日)、5日(月)、6日(火)の3日間、ワイキキの3軒のホテルで不審火による火災が発生しており、放火の疑いが濃厚として調査を開始している。
 ワイキキでは、4日(日)にアロヒラニリゾートで不審火による火災が発生しているほか、5日(月)夜には、ワイキキ・ビーチコマーbyアウトリガーで、そして6日(火)には、グランド・ワイキキアンbyヒルトンで火災が発生している。
 なお、いずれの火災も、消防署員による消火活動と建物に設置してあるスプリンクラーシステムよって延焼が食い止められ、火災による怪我人などは確認されていない。

 当局によると、5日に火災が発生したワイキキ・ビーチコマーbyアウトリガーでは、火災発生後に2つの客室で部屋にあった貴金属や電子機器などが盗まれる窃盗被害が確認されており、当局では、何者かが部屋の自動キー入力システムを改ざんするなどして窃盗を行ったとみて調査を着手している。
 また、火災があった2つのホテルの防犯カメラに不審な男性の姿が確認されており、当局ではこの不審人物が同一人物とみて男の特定を進めるとともに行方を捜査している。

 …と、WEB上で確認してみましたら、こんな火災でありましたようです。
 お二人に何らの被害がありませんでしたから良かったものの、火事は怖いですから…
 ただ、新婚旅行先での予期しません出来事ですから、お二人にはいつまでも強烈な想い出として残ります事でしょうねぇ〜
 年月が流れ30年後…40年後に振り返りますと、その頃にはお二人に取られまして、良き想い出として蘇って来ます事でしょうネ(^-^)//"







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9008.秋ですから、色んな行事が… 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/20(金) 22:52
 あんなに暑かった日々も過ぎ去り、ヤッと凌ぎやすい時候にと向かってきました。秋ですから、今から色んな行事化続きますネ(^.-)☆
 町内会の回覧で廻って来ましたご案内から少し拾ってみますと、
 ・水呑八幡神社 前夜祭 -- 令和元年10月5日(土) 例祭 -- 令和元年10月6日
 ・バラの町福山国際音楽祭 -- 令和元年10月10日(木)〜13日(日)
 ・水呑学区民運動会 -- 令和元年10月20日(日)
 ・水呑学区ふれあい文化祭 -- 令和元年11月2日(土)〜3日(日)
 ふ〜ん、「バラの町福山国際音楽祭」は、昨年は5月の開催でしたけど、今年は秋の開催ですか。いずれの行事も出掛けますと楽しいですから、また時間が許しますと写真撮りに出掛けてみたいですねぇ(^-^)//"





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9007.9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(4) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/20(金) 18:58











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9006.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(50) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/20(金) 17:57
 それではこの辺で尾山神社とお別れです。
 長町武家屋敷跡界隈も散策してみたい気持ちでしたけど、次回の機会を見つけまして訪れてみたいと思います。
 数日後には、新婚ご夫婦から楽しそうな画像が届いておりましたネ(^-^)//"









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9005.9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(3) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/20(金) 10:20








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9004.9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(8) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/20(金) 9:21
 福山城「鐘櫓」特別公開の様子を綴って来ましたけど、これでオシマイです(^-^)
 それでは、この辺で福山城公園から退散です。
 そぅそぅ、本日(9/20)の中国新聞朝刊に、こんな記事の掲載が…

 福山城天守北側の広場の一角に、伐採の木々が乾燥のため置かれてありました。
 これらの木々は、景観保全のため公園内で伐採されたものなんですけど、この再利用・有効活用についての記事掲載。ふ〜ん、市の財産として、これらの木々はイベント・校舎内装材等に活用されますのですねぇ(^-^)//"












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9003.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(49) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/20(金) 0:12
 @本殿
 建造は古式に則った三間社流造で、簡素にして神厳に満ちた社殿です。本殿に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢ではここが最初です。

 A拝殿
 入母屋造屋根瓦葺
 中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは旧金谷御殿から移築したものです。欄間は約八寸厚の欅の一枚板に見事な梅花紋を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた旧金谷御殿から移築したものです。

 B神門<国指定重要文化財>
 明治8年の建築で、和漢洋の三洋式を混用した異色の門として全国に知られ、兼六園と共に金沢市のシンボルにともなっています。第一層には戸室石(角閃安山岩)を用いてあり、第三層は四面五彩のギヤマン張りで、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標たらしめたものです。なお第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものです。

 C利家公像
 織田信長公に仕え青年時代は赤母衣衆として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。

 Dお松の方像
 前田利家公の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が利家公の母の姉で利家公とは従兄関係であり、利家亡き後は、芳春院と号しました。

 E授与所
 平成27年秋に完成したばかりの新しい授与所。開放的なガラス張りのデザインで、施設内には、金沢城など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあります。

 F金谷神社
 二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)をお祀りしています。

 G東神門
 旧金沢城の二の丸の唐門で、明治3年以来旧卯辰山招魂社前にあったものを、昭和38年に当社境内地に移築しました。金沢城は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この門が幸い難をのがれたのは、唐門の二匹の竜が水を呼んだためと言い伝えられています。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物です。

 H神苑
 旧金谷御殿の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した地泉廻遊式の名園です。神苑の水は、三代藩主利常公の命により完成した辰巳用水の水を高低差を利用して、兼六園から暗渠で導き、響遠瀑から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り地下水を池に流しています。



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9002.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(48) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/19(木) 23:53
 またまたWEB上で「尾山神社」を検索し、どなたかの記述をパクらせて頂き、尾山神社をご案内致します(^.-)☆

 ◆北の小京都・石川県金沢市

 石川県金沢市には北陸の小京都という呼び名があります。京都と同じくらい古い町並みや文化が残っている、金沢市だからこそつけられた呼び名です。
 そんな石川県や金沢市の礎が築かれたのは、江戸時代のこと。当時の石川県は加賀藩と呼ばれ、前田家によって統治されていました。加賀前田家の初代当主が前田利家です。
 金沢市内には、前田利家および加賀藩の精神を記念するため建立された尾山神社があります。和漢折衷でありながら洋式の風格も備えた、特徴的な神社である尾山神社を紹介します。

 ★まずは前田利家について解説

 新しい物好きであった前田利家は、当時まだまだ未発展だった金沢を開発し、現在の金沢の経済や文化、教育などの基礎を固めました。
 現在最も知られているのは、利家とその妻・松の物語。2002年には2人を主役とする歴史ドラマ『利家とまつ』が放送さたほどで、2人の仲睦まじさを伝えるエピソードは、現在まで語り継がれています。ドラマは高視聴率を獲得しただけではなく、金沢の知名度も飛躍的に上げました。

 ★尾山神社の4つの見所

 ・見所1 -- 和洋折衷 尾山神社神門

 尾山神社には普通の神社と異なり、日本式と西洋のスタイルが融合した門があります。
 オランダ人によって設計された門で、レンガと木材の3層構造で建造されました。最も特徴的なのは第3層に作られた西洋のステンドグラスです。最上部には日本最古の避雷針が設置されています。
 神門が建てられた明治時代は、日本に西洋文化が流れ込んできた時代。愛媛県の道後温泉や石川県の山代温泉古総湯など、当時の建築物の多くにはステンドグラスが採用されていいます。
 尾山神社の神門は、それらの建物と比べてもさらにユニーク。健在にレンガと木材の両方を採用した、和洋折衷の不思議な建築物なのです。
 神門に施された彫刻にも注目してください。これは前田家の紋章である「梅」を表しています。夕方以降に訪れる方は、日没後のライトアップもぜひご覧になってください。優しい光がステンドグラスを通り、見る者を魅惑的に照らします。普通の神社では得られない体験です。

 ・見所2 -- 和漢の融合 尾山神社本殿

 神門を抜けると、すぐに目に飛び込んでくるのが、和漢折衷の神社本殿です。本殿の屋根には中国の伝統的な建築様式が採用されており、ひとつの建築物の中に日本と中国、2つの国の要素が混ざり合っています。
 本殿の中で祀られているのが、加賀藩の創設者である前田利家です。

 ・見所3 -- 金鯰尾兜

 神社内では至る所に前田利家を記念する彫刻や置物を目にすることが出来ます。
 要チェックなのが、こちらの金色の兜。金鯰尾と呼ばれる、昔前田利家が使っていたものと同じモデルの兜です。霊力を持つと考えられていた鯰の尾をデザインしており、金沢市の特産である金箔が施されています。
 妻・お松の彫刻も前田利家像とそう遠くない場所に置かれています。出兵する旦那を静かに見守る姿を描いているそうです。

 ・見所4 -- 東神門

 尾山神社の後方にある東神門は、もともともと金沢城に備え付けられていたものです。東神門を通れば、前田一族がかつて暮らした金沢城遺跡へ行くことが出来ます。GONsan達は、この「東神門」から尾山神社に入りました(^.-)☆
 尾山神社は、和・漢・洋の3つの様式が融合している珍しい神社。新しいもの好きの前田利家らしい神社と言えるかもしれませんね。
 金沢市にやって来たら、尾山神社にも足を伸ばしてみてください。きっと前田利家も喜んでくれるに違いありません!

 ◆母衣

 母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。

 ・概説

 母衣は古くからあり、後には武士の「七つ道具」の一つとされたほど由緒ある道具である。古代の母衣は鎧の上から全身を覆う保呂衣(ほろぎぬ)という戦袍(せんぽう)であり、防寒のためだったとする説もある。それが平安時代末から鎌倉時代になると、母衣は懸保呂(かけぼろ)となった。縦に縫い合わせた長い絹布(5尺8寸、5幅ほど)を、首、冑、手の甲などに紐で結びつけて、それが風をはらんでふくらむことで、後方からの弓矢や石を防ぐ役割を果たした。また前方に対しても母衣を頭から被って矢を防いだとする説もある。日本においては古代から中世まで長らく弓を主武器とする戦闘法が用いられており、隙間の多い大鎧をまとって馬を駆る当時の武士には適していたのであろう。

 しかし(日本独自に様式化された)騎馬戦闘が廃れ、南北朝時代(室町時代)頃から集団戦に移行したことで、古式の母衣は実用性が低下し、見栄えが重視されるようになった。内部に鯨のひげや竹などで作った骨(母衣骨、母衣籠)を入れて常にふくらんだ形状を維持できるように変化して、前には「だし(山車)」というものを立て、串をもって鎧の後ろに挿して、敵味方に自分の存在を示す標識ともなる差物(さしもの)の一種となった。保呂指物(または提灯保呂)は、大きさも大型化し、10メートルを超えるような巨大な布が棚引くものもあった。戦国時代に鉄砲が伝来すると補助防具としての実用性は失われたが、大将側近の近習や使番だけが着用を許される名誉の装飾具となった。(母衣衆)

 新井白石の『本朝軍器考』では「母衣」という表記はその形状と用途から妊婦の胞衣になぞらえたものであるという説を載せているが、民俗学者南方熊楠は、中国古典より「羽衣」の字を写し間違えたという説を主張していた。












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9001.9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(2) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/19(木) 0:11










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9000.9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(7) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/18(水) 23:28
 この日のメンバーの中には、今まで、鐘櫓内に入られました方は何人かおられますようですけど、GONsanは初めて。
 こんな特別公開には、もぅ何年前になりますでしょうか…伏見櫓の中に入って以来。
 ふ〜ん、鐘櫓の内部は、こんな感じなんですねぇ(^.-)☆
 結構、狭い。ですから、2階に上がりますには7〜8人ずつで。この鐘は、今では電動で定刻に打たれますけど、城地内に鐘櫓が存在しますのは全国的に例がありませんようで、貴重な文化財との事。
 昔は、緊急時に武士を招集しますのに太鼓を叩きますのが頭に浮かんで来ますけど、鐘の方が遠くまで聞こえそうな気もします。
 ですから、城地内に鐘櫓がありましてもおかしくないのですけど、全国的に例が無い…とは、結構意外ですネ(^-^)//"











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8999.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(47) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/18(水) 22:17
 兼六園の金沢城公園方向への出口付近に存在します、この防犯カメラ…色んな角度から狙っておりますから、別に悪い事をしていなくても、つぃ身構えてしまいますネ(^-^)
 でも、園内の防犯カメラは、ここしか無かったような…GONsanが気が付きませんだけで、色んな場所に監視カメラの設置がありましたのかも…
 兼六園を出ますと、金沢城公園にと向かいます。
 こちらも既に昼間・夜間共に訪れていますので軽くスルーのGONsanでありました。

 そして、玉泉院丸庭園にと下りて来まして庭園内を一廻りし、次に向かいましたのが尾山神社であります(^.-)☆
 東神門(裏門)側から尾山神社境内へ。
 ほどなく「井村徳二顕彰碑」が眼に入りましたけど、う〜ん、「井村徳二」sanとは何者なのでしょう?早速、WEB上で検索です(^.-)☆

 ◆井村徳二

 井村徳二(いむら とくじ、1899年(明治32年)11月18日-1958年(昭和33年)10月27日)は、石川県出身の実業家、政治家。
 創業者の井村徳三郎の後、宮一大丸の社長に就任し、合併に伴い大和の初代社長に就任。
 衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。
 父は井村徳三郎(大和の前身である宮市百貨店創業者)。息子は井村寿二(勁草書房創業者、元大和会長)、宮太郎(元大和社長)。
 1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙では林屋亀次郎が国務大臣として行った地元石川県の内灘試射場の用地接収(内灘闘争)を批判して組合を味方につけ、現職の国務大臣を破る大番狂わせを演じた。
 当時林屋が旧丸越本店の場所で後に丸越となる百貨店を武蔵として経営し、井村が大和を経営していたため、このときの争いは「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦と呼ばれたが、対立候補の林屋は1943年(昭和18年)12月21日に林屋が経営していた丸越との合併で大和となった際に林屋が初代会長で井村が初代社長を務めた関係でもあった。また、北陸鉄道の代表取締役社長を1949年から1954年まで歴任した。

 …と、こんな地元の名士でありました(^_^)v

 ◆尾山神社

 尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市尾山町に所在する神社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
 主祭神は、加賀藩の藩祖前田利家で、創建は1873年。旧社格は、別格官幣社。境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社がある。神門は津田吉之助によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。例祭は利家の命日である4月27日。

 ・歴史

 慶長4年(1599年)に前田利家が没すると、前田利長はその霊を祀ろうとしたが、公然と祀るには憚るところがあったので、越中国射水郡の式内社物部神社(現 富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに合祀した。この神社は、幕末になると藩の財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をする。旧藩臣が集まり、前田土佐守家の前田直信が代表になり、1873年(明治6年)金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することとなった。元の卯辰八幡社は明治11年(1878年)、宇多須神社となっている。

 1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、1871年(明治4年)7月、卯辰山三社の一つである卯辰山天神社(卯辰神社、卯辰山天満宮)に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行われた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。

 1873年(明治6年)11月には前田家当主前田斉泰の子の少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行っている。次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなる。この神門は長谷川準也・大塚志良により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助(1827年-1890年)によって建てられた。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建される。
 1874年(明治7年)3月に石川県中教院が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行われた。
 1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日から5日には昇格慶賀祭が行なわれた。

 本殿と拝殿は1873年(明治6年)に建てたものである。

 ・祭神

 尾山神社、相殿にそれぞれ次の神が祀られている。
 尾山神社:贈従一位権大納言菅原朝臣利家(前田利家)
 相殿:贈正二位権大納言菅原朝臣利長(前田利長)、権中納言従三位菅原朝臣利常(前田利常)

 ・祭礼

 1891年(明治24年)は前田利家による金沢城修築(1592年(天正20年))より300年目であったため、初代金沢市長稲垣義方らが金沢城修築三百年祭を行なうことを提案し、同年10月11日-15日に行なわれた。11日の祭典には、前田利嗣夫妻も出席して執り行われた。
 祭典費として利嗣は1,000円を寄付している。また天皇は幣帛料20円を下賜している。13日には初めての神輿渡御がかつての前田家行軍式(備押)を模して行なわれた。
 1899年(明治32年)は、前田利家の死後300年にあたり、前田家の旧家老八家であった本多政以・横山隆平・長克連らの計画で、前田利家三百年祭(封国祭)が行なわれた。期間は4月27日から5月3日の7日間であった。29日に前田利嗣を祭主に、前田利同を副祭主にして祭祀が執り行われた。石川県知事・志波三九郎が奉幣使として参列した。神輿渡御が1日2日に行われたが、大盛況だったという。

 現在毎年6月中旬に行なわれている百万石まつりは1923年(大正12年)より封国祭にあわせて金沢市祭として行なわれるようになった奉祝行事に起源するものである。終戦により、尾山神社奉賛会が主催となり市祭としては行なわれなくなったが、1952年(昭和27年)より金沢市と金沢商工会議所が中心となって行なわれている。

 ◆東神門

 もともとは、金沢城二の丸御殿で利用されていた。二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある(作者名は不明)。
 その後、金沢城は廃城となり、金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして卯辰山の寺院に移動された(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている)。卯辰山の寺院がなくなると、尾山神社に移され、現在は裏門として利用されている。

 そして、眼に入りましたのが、何となく奇抜な「母子順風之像」でありました。
 これも、WEB上で検索してみますと、こんな記載が…ですが、詳しい記載は見当たりませんでしたネ。

 ・神社の境内にあるのがなんとも言えない母子順風之像。母子順風之像〜参拝者の度肝を抜かすアクロバティック母子〜
 ・「報恩感謝」の崇高な理念が込められているという銅像。












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8998.9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(1) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/17(火) 23:4
 9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全キャンペーン・交流会」の開催で、GONsanは当日欠席者に備え補欠要員として参加でありました(^.-)☆
 幸いにも当日は、欠席者はありませんでしたから、GONsanは皆さんの応援も兼ね、ノンビリと写真を撮らせて頂く事となりました。
 この日の様子を、説明を加える事もなく、画像でご案内致します(^-^)//"







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8997.9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(6) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/17(火) 17:34
 御湯殿の次は、いよいよ「鐘櫓」へ向かいます。
 筋鉄御門を正面に見ながら、伏見櫓と鐘櫓の間の広場へと移動です。

 ◆御湯殿

 京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていた。
 昭和20年の戦災により焼失したが、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復原されたものである。
 現在は貸会場として利用されている。

 ◆筋鉄御門

 福山城本丸の正門で西向きに建っている。元和8年(1622年)伏見櫓と共に伏見城から移築したものといわれている。
 下層の各柱には根巻き金具を付け四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みに大小の乳金具を打ち付けている。門扉は内開き二枚建てで12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾っている。
 上層は正面左端に出入口を設け、正面中央・右端と南側にそれぞれ格子窓を設け、内部床は拭(ぬぐい)板敷き、小屋梁天井となっている。
 外部は柱・土台・長押の木地型を出し、たるき・屋根妻・破風板・懸魚にいたるまですべて白亜塗りとしている。

 ◆伏見櫓

 この櫓は元和8年(1622年)城主水野勝成の福山城築城にあたり、将軍徳川秀忠が伏見城の一部移築させたという。昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やぐら」とあるのが発見され、移築の伝えが正しいことが明らかになった。
 櫓は初層と二層は同じ平面の柱割で、東西方向に棟を付け、さらにその上に下層よりやや小さい三層を載せ、南北棟の入母屋造りの屋根としている。内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井とし、外部は東・西・南に多くの窓を開いている。北を正面に建てられている。
 これらの構造や手法は、城郭研究史上初期の様式を残す、慶長年代の建物の典型として貴重である。また、伏見城の確かな遺構としてきわめて価値の高いものである。

 広場では、鐘櫓の見学前に最後のクイズ出題となりました。

 ★問9
 筋鉄御門の規模は次のうちどれでしょう?
 @9×3間 A9×4間 B10×3間 C10×4間
 正解:B

 ★問10
 廃城後、鐘櫓の裏に建てられた施設は何でしょう?
 @招魂社--戦後、備後護国神社に合祀される A遙拝所--鐘櫓の場所にあった B勇鷹神社--備後護国神社の旧称 C忠魂碑--黄金水井戸北側にあった日露戦争の祈念碑
 正解:@

 これで凡ての出題が終わりましたけど、実に難解でありました。
 GONsanが分かりましたのは、問1・問6の2問のみ(^-^;
 全問の正解者はおられませんでしたけど、10問の内6問正解までの方々が見事、賞品をゲットしておられましたネ(^-^)//"












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8996.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(46) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/17(火) 16:16
 暫し石川四高記念文化交流館のライトアップを楽しみまして、そろそろ戻りませんと(^-^)
 アパホテルのあります片町に戻って来まして時間を確認しますと、う〜ん、もぅこんな時間。P.M.8:55でありました(^.-)☆
 別にお腹も空いていませんけど、何か食べようか…と言う事になりまして…ですが、この片町にはファミレスなんぞありませんから、ブラブラ歩いて近くの居酒屋へ。
 披露宴後の二次会も終わりましたのでしょうか…暫くしまして、新婚ご夫婦も合流です。
 こぅいぅメンバーが揃いますのは、何年振りなんでしょう…ここ近年は福井に出掛けていませんから、久し振りのような感じも…

 GONsanは、挙式前日に金沢観光は終えていますけど、姪は挙式当日に金沢にヤッて来ましたので、翌日は、弟夫婦・姪・私達夫婦の5人で、またまた兼六園へ(^-^)
 まぁGONsan夫婦は年齢的に入園料は無料ですから、何度出掛けても構わないのですけどネ(^-^)//"











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8995.9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(5) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/16(月) 15:55
 次は、天守の西側の石崖横へ。ここでは、こんな問題の出題です。

 ★問7
 慶応4年(1868年)、長州軍は福山城を砲撃しました。消失前の天守にはこの時の弾痕が残されていましたが、どこにあったでしょう?
 @1階北側 A1階西側 B2階北側 C2階西側
 正解:A

 福山城の北側は、福山城全体を通して北側の守りが手薄で、その弱点からの砲撃を防御するために、厚さ3ミリほどの鉄板を張り巡らせていたようですネ。
 それでは、御湯殿に向かいます。御湯殿では、こんな出題が…

 ★問8
 本来の御湯殿は本丸表向、奥向、それぞれに1ヶ所ありました。このうち表向の御湯殿は何処にあったでしょうか?
 @月見櫓の横 A鏡櫓の横 B鐘櫓の前 C本丸苑池の裏
 正解:A

 う〜ん、相変わらず難解な出題が続きます(^-^;

 WEB上で「福山城天守閣」を検索しましたら、こんな記載が…

 ◆現復興天守の問題点

 福山城天守は、いわゆる「城郭復興ブーム」に再建されている。本来の天守は太平洋戦争末期、1945(昭和20)年8月8日の空襲により焼失しており、現在あるのは、1966(昭和41)年秋に市制50周年記念事業として、月見櫓、鏡櫓、御湯殿と共に復元されたものである。しかし、その形状は、焼失前の資料も豊富にあり比較的正確な復元が可能であったにもかかわらず、忠実とはいえない。それは次のような理由によると思われる。

 第一には、鉄筋コンクリート(RC)製であること。これは、当時の建築基準法では天守のような高層建築を木造で造ることができなかったため、そもそも選択肢がなかったからではあるが、これにより、黒塗りの窓枠 が漆喰風(白塗装)に塗られることとなったようで、全体の印象が焼失前とかなり異なることになった。ただ、コンクリート建築であっても、部分的に材質を変えるか、塗装方法を変えるなどすれば、旧状に近い状態を再現することはできたはずだが、そうした方法が採られなかった理由については下記で述べることにしたい。

 第二には、美観の問題、現在の天守は復元の正確さよりも風情が重視され各所が改変されている。具体的には、望楼部の突上戸(雨戸)、北面の鉄板張り、窓の左右非対称や大きさ、壁面の海鼠塀部分、などが異なっている。これらは福山城天守の特徴といえる部分であり、これらが再現されないことで福山城は「らしさ」を失ったといえるが、好意的に捉えれば洗練されたともいえなくはない。

 第三には、当時の文化財に対する意識の違い。上記に示した理由も結局はここに集約される。福山城も含め、太平洋戦争で焼失した天守は全部で7つあるが、水戸城を除き、いずれも1958〜1966年の間に鉄筋コンクリートで「復元」されている。これは、ちょうど高度経済成長(1950年代半ば〜)への移行期に重なる時期であり、これら天守の復元が戦後の復興を象徴する意図の強いことがわかる。一方で、多くの城郭において開発(破壊)が進むのもこのころからであり、言うまでもなく、時流は保存よりも開発が優先されていて、近世城郭の文化財としての価値はあまり問題にされなかった。

 つまり、この時代の復元天守は、いわば復興記念建造物であり、端的にいえば、城の体を為していれば忠実性はさほど問題とはされていない。実際、下表に示すように、その時期に復元された天守は忠実である方が少数となっている。しかし、その中でも最も 旧状と異なるのが、福山城天守であり、厳密には「復元」ではなく「模擬」の天守に分類される形状となっている(更にいえば、月見櫓、鏡櫓も忠実な復元ではない)。

 ところで、現在はこうした歴史的事実に反する復元はできなくなっている。というのは、文化庁は歴史的建築物の復元にあたり、以下の三要件を課しているからである。
 1.考古学調査などによって、柱の穴そのほかの遺構が確認できること。
 2.歴史的資料として、指図(設計図)が残されていること。
 3.古い写真などによって、かつての外観がわかること。
 この条件に当てはめれば、資料の乏しい福山城天守や櫓の再建は今日では困難なのも、また事実ではある。











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8994.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(45) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/16(月) 11:55
 挙式・披露宴も無事終わりましたので、少しユックリ過ごしましてからの夕方、嫁さんの弟夫婦・姪で、ライトアップされています金沢城公園に散策となりました。
 金沢城公園下のバス停付近で、嫁さんの従兄ご夫婦・甥夫婦と合流です(^.-)☆
 散策コースは、金沢城公園--玉泉院丸庭園--石川四高記念文化交流館でありました。まぁそれなりに楽しめますライトアップでありました(^-^)//"












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8993.9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(4) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/15(日) 23:50
 鐘櫓下から天守北側にヤッて来ますと、ここで次のクイズの出題です(^.-)☆

 ★問5
 福寿会館は誰の邸宅として建てられたでしょうか?
 @森下博--森下仁丹の創設者で広告王と呼ばれる A林半助--鞆の実業家、鞆軽便鉄道初代社長 B武田五一--関西建築界の父と呼ばれ、問3の台座は氏の作品 C安部和助--鰹節王と呼ばれた削り節の考案者
 正解:C

 この後、水野勝成公の像の前に移動し、次のクイズ。

 ★問6
 愛知県刈谷市で2013年に刈谷城築城480年マスコットキャラクターが作成されました。このキャラの名前は何でしょう?
 @かつなりくん Aかっつん Bろくざえもん Cかつなり〜ん
 正解:@

 ◆水野勝成

 水野 勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。

 ・郡山藩主

 元和元年(1615年)に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」とされ、郡山に3万石加増の6万石で転封される。これは依然政情不安な旧豊臣領に睨みをきかすために、勝成を配置したものであるが、大坂の陣での勝成の戦功に比べて、いかにも過小評価と考える人は多かったらしく、勝成自身は20〜30万石の知行を期待していたが、家康の命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、家康の機嫌を損ねてしまったとも言われる。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという水野氏側の伝承が伝わっている。
 郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617年)11月22日、生母の妙瞬尼が亡くなる。

 ・初代福山藩主

 元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、受領に当たっては幕府に尾道と笠岡との交換を要求し認めさせたといわれる。入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城であった。

 福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の水野勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国一宮である素盞嗚神社、吉備津神社を始めとする備後国内各地の寺社を復興し、旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。

 家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。
 水野時代の福山では、一度の農民一揆も起こっていない。
 寛永元年(1624年)、浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進し、相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1,000石を加増される。寛永10年(1633年)、家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637年)、江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。












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8992.嫁さんの甥の挙式で、8/2〜8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(44) 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/15(日) 22:3











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8991.先日の折り込みチラシの中に「備後入封400年祭」の案内が(^.-)☆ 返信  引用 
名前:GON    日付:2019/9/15(日) 12:32
 数日前の新聞折り込みチラシの中に入っていましたのが、この「備後入封400年祭」のご案内。
 初代福山藩主・水野勝成公の入封400年を記念しましての『備後入封400年祭』が、9/21〜9/23の3日間開催されますようですネ(^_^)v
 ところで、この「入封」ですけど、タマに「にゅうふう」と読まれる方がおられます。
 正しくは、「入封(にゅうほう)」ですし「転封」は「てんぽう」ですネ。お互い、正しい読み方をしたいものですネ(^-^)//"




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