人吉に着いたビクトル一行は、観光タクシーで青井阿蘇神社をお参りしたあと蔵めぐりへ人吉は、きじ馬が大切にされている町でした。伝承蔵と武家蔵と味噌醤油蔵と幽霊寺へビクトルのお目当ては、伝承蔵の宮原工芸さんです。いつかは行ってみたいと思っていました。宮原工芸さんには、きじ馬や花手箱がいっぱいでした。
観光のあとは、今日のお宿のあゆの里さんでゆっくり温泉に入ってくつろぎました。お楽しみの売店では、もう一つの住岡さんのきじ馬が販売されていました。工房にはお邪魔できなかったのでうれしかったです。あゆの里さんは、売店の係りの方がすごかったです。
翌日は、九州横断特急で熊本へ熊本では、くまモンタクシーに乗って観光をしました。くまモンタクシーは、熊本に2台しかないのだそうです。(^O^)「昨日イベントでくまモンを乗せたら、大きくて乗るのが大変で身動きが取れなかったそうです。」運転手さんがとても良い方で楽しかったです。
熊本ラーメンを食べて腹ごしらえをした後、水前寺公園は、緑がとってもきれいでした。東海道五十三次を模しているのだそうです。富士山が印象的でした。
水前寺公園の参道?のお土産物屋さんで彦一ゴマを発見。ビクトル家の子よりも大きい子とおともだちになりました。左(小さいほうがかあわいいような・・・右)(右の小さい子は傘としっぽがビクトルの手製ですです。)仲良く飾ります。
その後熊本城へ熊本城にも武将隊がいてびっくり。鹿児島・熊本を満喫した旅でした。今回は、郷土玩具もいっぱいでうれしかったです。九州は、新幹線で出かけられるし、鉄道も面白いし温泉もいっぱいあって食べ物もおいしいので、いつも楽しみなビクトルでした。 おしまい
今年の夏は、仕事三昧で、これといったお楽しみのないまま過ごしたビクトル。暑かったせいか、体調も今一で、お家でのお夕寝と家庭菜園がが唯一の楽しみでした。そんな中で、ちょっと楽しみにしていたメインイベントに出かけてきました。ビクトルの夏休みと言えば九州。ことしは鹿児島、熊本へ。初めてみずほに乗りました。
鹿児島中央では、お目当てのむじゃきさんで30分大人しく待ってシロクマを食べました。ミルクセーキ味で美味しかったです。
シロクマですっかりタイムロスをしたビクトル御一行は、レンタカーに乗って一路鹿児島神宮へ(禁撮影だったので、下から少しだけ)お参りを済ませて社務所へ。
そこは、おもちゃの神社授与品がたくさんありました。ビクトルは、授与していただいた経験が少ないのでうれしかったです。鳩笛さん。ちょっとポップです。
それから羽子板。素朴な作りなので、本当に羽子板遊びができそうです。
次に初午のポンパチは、大小あったのでどちらも授与していただきました。いい音がするので、ついつい遊んで壊さないようにしないといけないビクトルです。
鯛車や刀などは、今は、ありませんとのことでした。茶々丸さんから頂いた刀の画像を紛失してしまいました。撮影します。
その後、石原荘さんへ石原荘さんの最初のおもてなしは、可愛らしいシロクマでした。(^O^)石原荘さんでは、お部屋などで鹿児島神宮の箱が実用品にそしてロビーでは、箱が販売されていました。箱の後ろを見ると鹿児島県伝統的工芸品の印が。授与品が伝統的工芸品なっていました。素朴ですがしっかりとした作りで授与品のよさを残しています。温泉がすごくよかったです。石蔵を移築したレストランには、鹿児島神宮の鯛車や箱などと一緒に薩摩首人形や三河系の土人形が飾られていました。
翌日は、嘉例川の駅からはやとの風に乗って吉松へ。嘉例川の駅は、とても大切にされていていい感じでした。はやとの風もレトロ感がよかったです。
吉松でしんぺいに乗り換え一路人吉へ。台風の影響で観光できない列車に・・・・。大畑駅だけちょっと停車してもらえました。残念。でも、折り返しは運転できないようだったので、人吉につけただけでもラッキーだったかも。
戦前・戦後のモマ笛です。右の2つだけは中ノ子さんです。
どこかモダンな面相です。
同じ産地でも、玩具帖の作とは全く雰囲気が違います。
上記の話題から数年が経過しましたが、玩具帖の木兎笛をひょっこりと入手しました。手にしてみると、確かに津屋崎のモマ笛とは形状も違い、面白味が感じられます。巨泉玩具帖 4巻4号12 画題 広島十日市土人形木兎 よみ ヒロシマトオカイチツチニンギョウミミズク 巨泉による分類 十日市土人形,笛,木菟(みみずく) 都道府県名 広島県 備考 横三寸九分、高一寸七分 大正十三年作、製作人丸本氏寄贈
十日市のみみずくは、寄り目+爪が太目で、ビックリ顔みたいになってるのが楽しいです。
目が離れてる方も丸本製かどうかはわかりませんが、並べると違和感はないです。
長谷川適所氏によって誂えられた「福寿草土鈴」です。余程、少数、作られたものでしょう。久々に初見の土鈴に出会い、奥の深さを感じます。
細部に至るまで、細やかに作り込まれています。鉢に「適所」の陽刻があり、もしかすると愛鈴界での年始用かとも思われます。
町はずれにポツンと立っていました。ところで「香木人形」は手持ちにもありますが、この素材は、香道で用いる香木には似ていません。
この手は量産品ですが、最初の画像の左のパターンは初めて手にします。
同じブースに、小さなおかめ&福助もいました。
既存のおかめ&福助です。
久しぶりの香木人形が、今度は大通りにポツンと立っていました。「鷹を持つ老人」でしょうか、中々趣があります。
福良雀土鈴が届きました。(画像右)「宝尽し」の文様が、以前からの手持ちと微妙に違っていたので、入手しておいてよかったです。小型の雀は練り物ですが、意匠が酷似しており、土鈴は、この練り物がモデルなのではないかとも思われます。
背中に海老が乗っているだけで、何だか有難い感じに思えるのは、心が貧困なせいでしょうか(~_~;)
煉瓦壁の一角に、長年可愛がっている石の招き猫を置きました。これから、絵馬棚や交通安全基金の募金箱を設置したりして、小さな名所として育てようと思っています。
佐賀の石屋さんが作ったものです。この猫さんには、これまでにも沢山の願い事を叶えて貰いました。末永く大切にお祀りしていきます。オリジナルの絵馬も作りました。
ロンドンオリンピックもいよいよ終わりですね☆ところで、オリジナルの絵馬ですが、安価な上に印+名入れ無料というのを見つけて作りました。角印は、印鑑屋さんの注文サイトのシュミレーションで、「招福山猫地蔵尊之印」と入れて出た画像を使い、実際の印鑑はないままでで出来ました(~_~;)
先日の鷽土鈴が届きました。当初から、簡素な土鈴本体よりもむしろ、念入りな雰囲気の栞に興味を持っていた処、栞は2種類入っていました。鷽の栞からは、秋田の中野英一作「魔除鈴」であるという以外に詳細な情報は得られませんでした。もう一枚は、奈良の蜾贏神社授与「すがる鈴」の栞が紛れ込んだもので、僕にとっては貴重な拾い物でした。
左の画像の真中が、手持ちの授与鈴です。今回入手の栞によって、「ねぶりこ(おしゃぶり)」が象られた「すがる鈴」の由来が判明して嬉しいです。【蜾贏(すがる)神社】奈良県橿原市飯高町 子部神社の南西約100mに鎮座する小祠。※祭神 多神宮注進状の裏書きに、 「蜾贏神社一座 雷蜾贏(イカヅチスガル)の霊 亦雷神と云う。是即小子部連の遠祖なり。子部の里にあり。未だ官弊に預からず」とある神社で、軒の宮ともいう。拝殿軒下の神額に子部神社とあるものの、“未だ官弊に預からず”とあるから、式内・子部神社ではないらしい。 祭神・イカヅチスガルとは、上記、蚕児の代わりに小児を集め小子部の姓を賜ったスガルのことだが、イカヅチスガルという訳は、雄略紀7年条に記す 「天皇が小子部スガルに、『朕、三諸山(三輪山)の神を見たい。お前は力が強いので、行って捕らえてこい』と命じた。スガルは三諸山に登って大蛇を捕らえて天皇に見せた。大蛇は、雷のような音を立て、眼がきらきらと輝いていた。天皇は斎戒されていなかったので、畏れて目を蔽い殿中に隠れられた。そして大蛇を三諸山に放ち、スガルに改めて雷(イカヅチ)の名を賜った」(大意)による。 三諸山(三輪山)の神が“蛇”であることは、箸墓伝承(崇神紀)によっても知られるが、古代信仰での蛇は水神であり雷神でもある。また、桑の原に落ちた雷は再び天に昇ることができないので、桑原には雷は落ちないとの俗信がある(雷除けの呪文・クワバラ クワバラの原点という)。 一方、スガルは天皇から蚕を集めるよう命じられており、そのスガルが蛇=雷を捕らえ、イカヅチの名を与えられたのも、蚕・桑・雷・蛇の関連からとみることができる。 しかし、同じ集落内にスガルを祀ると思われる式内・子部神社があるにもかかわらず、蜾贏を祭神とする当社が創建された由緒及び創建時期はともに不明。※社殿 子部神社(小子部神社)の前を過ぎ西へ曲がった先、民家の先に拡がる田畑の畦を南に回りこんだ処に鎮座する。畦の脇に“すがるの宮 子部神社”との立札がある。 周りを民家と田畑に囲まれた狭い境内に、南面して拝殿(入母屋造・間口三間・奥行一間三尺)が、その奥、土塀に囲まれた中に鳥居が立ち、朱色の銅板葺き・春日造の本殿(間口二尺一寸・奥行一尺四寸)が鎮座するが、塀が高くよく見えない。
戦前に、丹波篠山の平左衛門稲荷神社(まけきらい稲荷)で授与されました、「狐土鈴」です。玩具帖にも見える、地方の稀少作ですが、見た目が地味なせいか不人気でした。玩具帖 29号16 画題 [平左エ門稲荷狐] よみ ヘエザエモンイナリギツネ 備考 高二寸五分、昭和十年田中幡賞氏より 丹波篠山町同稲荷社より出す
■王地山平左衛門稲荷神社(まけきらい稲荷)王地山公園の西側、赤い鳥居がトンネルのように続く長い石段を丘上に登ると、王地山稲荷神社と向かい合って、土俵の上にお祀りされているのが平左衛門稲荷神社である。またの名を負けきらい神社といい、次のような話が語り継がれている。 「篠山藩主青山忠裕公が老中であった約170年前の文政年間の頃、毎年春と夏に、江戸両国の回向院広場で、将軍上覧の大相撲が催されていた。ところが、いつも篠山藩のお抱え力士たちは負けてばかりであった。ある年の春場所のこと、篠山から来たという王地山平左衛門ら8名の力士と行司1名、頭取1名の 一行10名が現れ、土俵に上がると連戦連勝してしまった。 負けきらいのお殿様は大変喜んで、その者達に 褒美をやろうとされたが、どこにもいない。 後で調べてみると、なんと全員が領内のお稲荷さんの名前だった。そこで、それぞれに、幟や絵馬などを奉納して感謝したという。」今は、招福除災・商売繁盛勝利守護、それに合格成就の神として広く信仰されている。