久しぶりにビクトル家に新しいおともだちが来てくれました。犬笛くんです。音もちゃんとします。後ろに「正」と入っています。東北のものでしょうか????
「新版変わりうつし絵」のぽち袋、からくり仕立ての楽しい意匠が目を引きます。怖いのは、題材ではなく、その値段。。終了まであと3日もあるのに、あれよあれよの133,000 円(・。・;今年も相も変わらず、涙で見送り日記を綴る日々でした。
江戸趣味の粋な味わいに満ちています。
からくり玩具のコレクターはもちろん、狸や達磨、猫のコレクターにとっても、垂涎の的でしょう。。
手ぶらも淋しいので、おもちゃ柄の千代紙でも拾っておきました。展示の背景にアレンジしようと思います。。
茶々丸さんこんばんはいつも本当にありがとうございます。年も押し迫っているというのにやり終えていないことがあまりに多いので開きなおっているビクトルです。「新版変わりうつし絵」のぽち袋、すごく面白くて素敵なものですね。誰が考えたのかなぁ?アイディアすごいですね。絵も面白いです。それにしても133,000 円は、庶民には厳しいですね(TOT)目が点に・・・ということで画像は、久々に登場のメテンドレです。ワンコウ団地で元気にしています。おもちゃ柄の千代紙可愛らしいですね。玩具の背景に飾ったら見せてくださいね。楽しみにしています。(^O^)
ビクトルさん、映画は如何でしたか?今日は、古玩具が描かれた色紙を入手しました。お正月に飾ろうと思います。
「甲子」の年号が見え、大正13年だと良いのですが、昭和59年の印刷ものかも知れないです。
古作の人類模型人形です。朝鮮・アイヌ・琉球などの人気作品には手が出ませんでしたが、これも丁寧な仕上がりで、興味深く思います。■商品説明:自然人類学者 坪井正五郎氏の監修で製作されており、1903年に大阪天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」にて販売さた品だと思われます。■参照:人類館事件 人類館事件(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高砂族(生蕃)・沖縄県・朝鮮(大韓帝国)・支那(清国)・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。
ビクトルさん鉄子さんはカンカンさんでしたか、混乱してました(^^ゞところで日本最西端の駅には、小さな小さな鉄道博物館が付属しますが、当地へご来訪の帰途、ご覧になられましたか?けっちぃ〜さん三浦友和さんといえば、「ALWAYS三丁目の夕日」でも好演でしたね☆来年公開の第3弾にも登場するのでしょうか。今度は3D方式だそうで、これまた楽しそうです。
色々な意味で ヤットカメです。下記のブログを 見て下さい。少し秘密めいた 今回の企画早急に お送り致したいと思っています。写真は 今回の 頒布品ではございません。 http://blogs.yahoo.co.jp/omoshirosou/30063331.html
これは楽しいです。満洲国のさまざまなお店の看板が紹介されています。食べもの屋〜惣菜屋、酒屋、日用品〜靴屋、櫛屋、薬屋〜軟膏売りなど、そのユニークな看板群を見ているだけで、当時の満州国にワープしてしまいそうです。出版元:日本国際観光局刊行年:昭和15図版58頁 本文39頁
こんにちは わたりんです今回は 縁有って 中野土人形の饅頭喰いとなりましたとにかく 他に無い物をと云う事でずいぶん考えられたようで試行錯誤の上での完成となったようですお父さんとお母さんは 子供からしてみれば一つのお饅頭で 2つに分けること自体が悲しい事です離れ離れになったお饅頭を握りしめこんなん嫌だぁと泣きじゃくる子供の気持ちになってしまいましたお面を頭にのせて 本当の心を表に出している小さな子供の心情を表現されたのかしらと 推察しています
今日は、あまり見かけない種類の南強作品が出ていましたが、犬山の本当の愛好家に迎えられた方がおかめさんも幸せだと思い、見送りました。■商品説明■高さはは約5.4pです。おかめ側に(私あなたに命がけ)とあり ひょっとこ側に(お前みすて鳴るものか)と書かれています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・おかめさんを見送った後に、これは激戦かと思われたガラクタセットが、波風も立たず転がってきました。
名著「野田家に見る戦前の名古屋土人形」にも紹介されている、猿投神社授与鈴(松岡香一路氏・寄進)は年度による差異があり、侮れません。初代・藤井陶楽作のサムハラ鈴なども捨て難いものです。
予想通り、手持ちと違い、「寅」(昭和13年)でした。手持ちは辰(15年)、巳(16年)、未(18年)なので、今度のが最古です。
梅鉢紋から、天満宮関連だとは思いましたが、鷽で知られる岡崎の岩津天満宮から、こんな授与鈴が出ていたとは知りませんでした。■岩津天満宮岩津天満宮(いわづてんまんぐう)は愛知県岡崎市にある天満宮である。岩津天神、芭蕉天満宮とも呼ばれる。祭神は菅原道真。 宝暦9年(1759年)に信光明寺第22代の一誉が、伊豆国の芭蕉天神ないし相模国の荏柄天神を勧請したといわれる。 明治維新後の神仏分離令により、管理が信光明寺から、岩津村へ移すことになった。しかし1879年(明治12年)、火災により境内は焼失した。これを聞いた、三河へ布教に訪れていた富山県の芦峅寺の大阿闍梨鑁禪(佐伯鑁禪)が、屋敷をねぐらとして借りていた碧南の実業家、服部長七に援助を依頼し、社殿を再建した。1900年(明治33年)6月に臨時祭典を執行し、1911年(明治44年)に本殿を、1920年(大正8年)に現在の拝殿を造営した。 また、トヨタグループの創始者である豊田佐吉が病弱だった子供の頃、健康祈願のために歩いて参拝に来たというエピソードが残っている。
出品画像で破損の接着のように見えていたものは、異物の付着でした。四日市萬古土鈴は、そのような割れ方はしないはずです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・サムハラについて 無傷無病、延命長寿の神として知られる。サムハラとは不思議の4文字で、身を守ると言われている。これは漢字のような文字であるが、神字であり漢字ではないためPCによる活字変換は不可。 東大寺、雷山千如寺大悲王院(清賀上人により十転化の功徳があるという)など各地の寺社のお守りの呪文に使用されている。 サムハラの故事 曾子が病になって臨終の際に、弟子に体の全部を調べさせ、一つの傷痕もないのを見て安心し「父母に体を受けて生まれて幸いにも一つの傷痕もなくお返しする事ができるのは孝を尽くしたことだ」と言い、生命の守護神(サムハラ大神)に深く感謝したという。 加藤清正は文禄・慶長の役の時、サムハラを武器の刃に彫りつけて信じていたために万死に一生を得たという。 『耳嚢[6]』巻2に、1782年(天明2年)、新見愛之助という小姓が登城の時に馬ごと坂の下に落ちたが怪我がなかった。他の者に理由を聞かれると領民から送られた守護札を見せ「領民が野においてキジを矢で射たが当たらず、逃げようともしない。弓がうまい者たちが競ったが駄目であった。このキジを捕まえたところ背中にサムハラの4文字が書いてあった。『この文字を書いた札を懐に入れておくと良いことがある』と流行った。」と語った[7]との記述がある。 平田篤胤の『仙境異聞』(上) 三之巻に慶長年間に大樹公(征夷大将軍のこと)が狩で発見した鶴の羽にあった文字(サムハラの文字)が怪我よけとして広まり、寅吉が仙骨の人の符字のようなものに見たが、「ジヤク、コウ、ジヤウ、カウ」というように聞いたがよく知らないと言ったという。 岡田挺之の随筆『秉穂録』に「福岡で鶴を捕ったところ、鶴の翼に「さむはら」という四文字の符字があった。長命の符字であるだろうと人々はこれを写し取って帯びた。また斎藤実盛の位牌が淡路のある寺にあり、位牌の背にこの四文字がある。最近、江戸でこの符字を帯びた人が落馬したが怪我が無かったので、これを帯びることが流行した。」とある。 國安仙人(万延元年(1860年)7月23日-大正元年(1912年)9月28日 幼名 米太郎 普明光美 加波山神社の摂末社普明神社に祀られる。)が信者に与えたタク字びよる霊符の最初の4文字がサムハラの文字(読みは「けん しょう けん ご」)であったという。 その他 サムハラはサンスクリット語の saṃvara (「三跋羅(さんばら)」)という言葉に由来するという。 淡路の寺に斎藤実盛の位牌があり、その背にサムハラの文字が書かれている。経緯は地元の人も知らない。 短刀に刻印し守り刀とされた。 厭勝銭(えんしょうせん)の一種にサムハラ銭がある[14][15]。(厭勝銭は流通貨幣ではなく、縁起物もしくは護符として所持した銭。ここでは弾除けの祈念銭。)