[ ホームページ ] [ 携帯用URL ]
建設営業マンへのメッセージ
                      私が愛した建設業! 全国の建設営業マンに贈る静風からのメッセージ

[ EZBBS.NET | 新規作成 | ランキング | オプション ]
iモード&(絵文字)、au対応!ケータイからも返信できる無料掲示板!
名前
 E-mail 
題名
内容
投稿KEY    タグ有効 改行有効 等幅フォント
URL



120.あの人に頼みたい! 返信  引用 
名前:静風    日付:2014/7/30(水) 19:47
現役時代の投稿です。

自分の知り合いや、近所で建物が建築されたりする時、
何も知らされず、他の会社に発注されると、寂しい思いをすることがある。

ああ、自分はその程度の関係だったのか? と

考えてみれば虫のいい話である。
果たして自分はいかほど、その方に心を奉じてきただろうか?

何もしていないくせに、仕事だけは欲しいなんて、虫が良すぎる話である。

女房からよく言われたものだ。
「近所の方が貴方に明るく挨拶するのはどうしてか、わかる?」
「貴方じゃないのよ!私が一生懸命に地域のみなさんに尽くしている部分も多いのよ」

言われてみれば、本当にそうである。
普段の周りの人に対する思いやりが、解として出てくる。

何も仕事に限ったことではない。
「人生の解」として、、   出てくる。


137.私の転社劇(その1) 返信  引用 
名前:静風    日付:2014/5/6(火) 7:58
昭和56年父の母が他界した。
父が両親を失って寂しそうにしている姿を初めて直視した。
ああ、家には祭主が必要だ。墓守りが、

両親の最後を安寧に過ごさせてやることが子供の務めだ、と感じた。

唐突ではあったが、葬儀のあと、九州支店長へ電話をした。
「自分は会社を辞め、地元に残ります」と。
また「営業所長は大事な仕事ですから、早く後任を決めてください、
しっかり引継ぎをさせていただきます」と

しかし支店長はそのことを社長に言えずに長く隠していた。

それから半年も経ったろうか、57年の2月頃だったと思う。
社長から電話があった。「すぐ上京せよ」と
社長室で二人っきりになった。

「松林、うちには3700人の社員がいるが、お前を俺がどれほど可愛がったか、
お前自身が一番知っているはずだ。
なぜ裏切るんだ。今からという時に」

「社長、申し訳けありません。大事なことに気付きました。
親孝行をさせて下さい。」

社長は当時、奥様を数年前に亡くし、寂しい毎日を過ごしておられた。
そして職務上からも、どうしても伴侶が必要となり、再婚を思い立ったのだが、
身内の賛同が得られず、少し寂しい親子関係にあった。

そういうわけで社長の再婚式は社員としては私一人が立会い、
長崎でひそかに祝儀をすましたような次第であった。
私の「親孝行」という言葉を聞いて、社長も心なしか感傷的であった。

「それで俺に弓を引くようなことはないだろうな、どこへ行くのか」
「三菱重工業長崎造船所直系の建設会社、R興産です」

当時F社は三菱重工業を最重要な顧客としており、
海外における火力プラント、海水淡水化プラントなどの現地工事に加えて、
上五島石油備蓄などの重要案件が目白押しの時であった。

そしてA元三菱重工業社長が火力プラント部長から、副所長、所長と長崎造船所の
象徴の人であった時である。
「R興産か」と言ったきり、もう反対はしなかった。

そのすぐ後、社長は長崎造船所に挨拶に来られた。もちろん私も同席した。
所長に向かって「この男がわがままをいいまして、うちを辞めて、
お宅の子会社にお世話になると、言っていますので、どうかよろしく。
私が一番可愛がっていた男ですので」と言って頼んでくれた。

今考えても真実、あり難い社長であった。
退社した現在でもなお、「今は亡きS社長の門下である。」

138.私の転社劇(その2) 返信  引用 
名前:静風    日付:2014/5/6(火) 7:54
私の転社劇について前回述べたが
実はその10年前にも、前兆劇があっていた。

入社から7、8年後にはF社は躍進に躍進、
業界のルーキーとして一躍注目を浴びる存在に成長していった。

私が29歳のとき、父が大病に罹り、危ないとの報が東京へ届いた。
仕事で帰りたくても帰れない。
当時私は土木設計課長として課員10名を擁し、一番油の乗りきっているときであった。
ひょっとすると自分は親の死に目に逢えないかもしれん、という気持ちが
かすかに脳裏をかすめた。

私の上司にM・Iといい、東京本店の副店長をしている大学の先輩がいて、
私を弟のように可愛がっていた。
長崎のR社のT部長とは熊大土木の同期だった。

当時のR社は三菱重工の海外火力プラント進出に併せて、海外工事のスーパーバイザーを
懸命に探している最中であった。

その相談は当然のように同窓であるI副支店長にもなされていた。
あるとき、I副支店長から
「松林、俺がこんな話をするのも変な話だが、
長崎のRという会社に俺の同期がいて、どうしてもお前みたいな
設計も現場もわかる男を欲しがっとるが、話を聞いてやってくれんか」との相談があった。
父のことで頭が一杯だった私にとってそれは貴重な提案であった。

すぐに長崎に飛んで、当時のR社の社長、T部長と面談、
前向きに検討することで合意し、その足で父のところへ向かった。

父は病床で烈火の如く怒った。
「政寛、俺はお前が大手ゼネコンのF社で活躍し、頑張ってくれていることが
俺の誇りじゃないか、生きがいじゃないか!! なんでお前がR社か!
あんなところでお前が働いて、俺が喜ぶとでも思っているのか!!」
「F社の最後の一本の柱になって会社をお前が支えてやれ」
と言って、涙を目に一杯溜めて叱責した。

私は父の言葉の中に男親の美しさをみた。
そしてT部長に電話をした。
「誠にご好意を戴きながら、申し訳けありません」と
世間では父に限らず、まだ当時のR社を出向者対策の営繕部門としか見ていなかったのだ。

皮肉なことにF社はその直後、5年間ほとんど受注のなかった東京都担当の
営業課長をレイオフとし、私をその後任とした。
私は技術者としてでなく、営業マンとして真価を発揮し、
ついに皮肉な運命のいたづらか、長崎営業所長に任命されることになる。

営業所着任後4年が経過した時、父の母が亡くなり、
仏事を重ねるうちに、父はもう私が郷里に残ることに反対をしなくなった。

「お前の人生だ。思うとおりに頑張りなさい」

それが改めてR社に転社することを相談した時の父が私にくれた
「はなむけの言葉」だった。

139.私の転社劇(その3) 返信  引用 
名前:静風    日付:2014/5/6(火) 7:53
「なんでお前がR社か!
そんなところでお前が働いて、俺が喜ぶとでも思っているのか!!」と
いって涙を流して叱責した父であったが、

4年を経過したある日、父が68歳になったとき、ぽつりと私につぶやいた。

親父の死んだ年になったばい、と

そういえば松林家は祖父も祖々父も68歳で亡くなっているのだ。
やはり気になるのだろう。

そいじゃ墓でも綺麗にしとこうか、

松林家の墓はかなり広かったが、泥の墓地で
石塔も幾分傾いている状況だった。
隣りの墓地との境界もはっきりせず、子供達の遊び場になっていた。

父の訓を後世に残そうと私が「真心」と書き、石屋さんに彫ってもらった。
周囲は洗い出しブロック塀ですっきりと仕上がり、立派な墓が完成した。
 

ところが本当にその墓の完成を待つように、父の母が他界した。
複雑な心境だった。

そしてその葬儀の時、
会社を辞めて10年以上を経過した父の勤め先からは
社長が来るわけでもなく、花輪が届くわけでもなく、
むしろ長崎営業所長であった孫の私の花輪、電報、そして弔問者が詰め掛けた。

自分の実母の葬儀なのに喪主である父には少し寂しい思いをさせた。

ああ、やはり家には祭主が必要だ。
そして父の臨終に際し、安寧のひとときを持ち、
葬儀をしめやかに執行してやらなければならない。
それが人として生まれて、最大の行事であり、務めであると、
そう感じた。

38歳の時、退社を決意し、支店長にお願いしたが、なかなか辞められず、
実際に会社を離れることになったのは何と、1年後の7月1日だった。

6月27日に東京本店で送別会、
28日に大阪本社で送別会、
29日は九州支店で送別会、
30日は長崎営業所で協力会社社長も交えて送別会、
そして翌7月1日はR社のフロアで新任挨拶をさせていただいた。

その私も我が家系の鬼門、68歳をなんとか乗り越えられた。
あとはおつりの人生、見事に散りたい。

166.今がチャンス! 返信  引用 
名前:静風    日付:2013/12/24(火) 18:4
久しぶりにR社を訪ねてみた。
11月の式見ハイツOB会にもイベントの都合で出れなかったので
新しい社長さんにご挨拶しておこう、と

私が39歳でR社に入社した頃、
なんとか町の仕事を100億受注したいというのがわが社の夢であった。
その夢に向かって私はその中心を担うことを決意した。
社長の片腕になりたかった。
途中入社した人間にとってはそれをしなければ生きられない、と感じていた。
親会社からの出向社員のように「平穏無事に」とは行かない。

自らが受注計画を企画し、自らが率先して
社長室と一体になってがむしゃらに頑張った。衝突もあった。
九電もNTTも、建設省も、運輸省も、道路公団も、県も市も近郊町村も
初めて受注できたところばかりだった。
そして念願の100億が突破でき、退職時には300億にまで到達できた。
R社の輝かしい一時代を担えた、という自負は現在もある。

順調な時代に頑張っても「そのような感動」は生まれない。
自分が会社の最後の一本の柱になるんだ!という気概を持って
今こそ頑張れ、と営業マンたちには鼓舞した。

今、どんな仕事が利益を生み出すか?どうすれば受注できるか?
指示を待つのでなく、自ら提案しなければならない。
そして言った以上、「やらなければならない」

以前にも自宅に相談にきた営業マンに熱く語ったことがある。
真の営業マンは社長と一緒に客先トップに逢う人間でなければならない。
この男は社長から信用されている、という印象を客先に与えなければならない。
こそこそと裏リベートをちらつかせて、陰のサポーターに依存するような
姑息な営業マンには絶対なるな、と
この仕事は社長が一生懸命になってくれたから取れた、という結果を
造りあげられる営業マンでなくてはならないし、
いつも社長と一緒に社長車に同行できる営業マンになれ、と

彼等ならかならずそれができるし、トップもいずれそれに気づくだろう。
その連中も私がR社に途中入社した年齢になった。

今が絶好のチャンスである。
経営者は今、「頑張ります!私にチャンスをください」という男の
出現を待っている。
私が薫陶した仲間達よ、どうか「夜明けの太陽」になってくれ!!



168.Re: 今がチャンス!
名前:松林静風    日付:2016/1/17(日) 6:54
社長が替わったとき、今がチャンスだ!社長を助けられる3本の矢になれ!!

117.試練の時に何を考えているか? 返信  引用 
名前:静風    日付:2013/12/24(火) 18:2
営業マンの誰もが経験することである。
自分の担当する営業先(市場)から仕事がもらえなくなったとき、
さて貴方は何をするか?

どうしたら受注できるようになるかを血みどろで考えることもいい。
新たな顧客を開発するのもいい。

要は営業マンが試練に立たされたとき、どう社内外で行動するか、である。
経営者は営業マンの動きに敏感になる。

やはり「黙っていても会社の行く先をよく考えて自分の行動を管理している」と
経営者をうならせるような自発的な企画提案と実際の行動が求められる。

営業マンは会社の経営理念を写す鏡でなければならない。

泣き言を言ったり、愚痴を社外にこぼすような営業マンはいずれ排斥され、社内にはいれなくなる。

58.お祭りに行こう! 返信  引用 
名前:静風    日付:2013/5/14(火) 20:3
2003/05/13 10年前の話、

5月10日、 野母崎町の「樺島灯台祭り」に参加した。
主催は樺島公民館である。
町役場の方もたくさん参加しておられた。
私はいろんな種類の笛を抱えて、祭りに参加。
はじめは恥ずかしさも手伝い、どこでやろうかと逡巡したが、会場を一回りして、
受付の前の石のベンチに陣取った。
まず日本の「篠笛」を吹く、
それから雲南省の民族楽器である横笛「バウ」や瓢箪を使った「フルース」など、
中国の尺八「簫」や「口笛」、南米の「ケーナ」も
しばらくすると子供達がすこしずつ集まってきた。
珍しそうに吹いてみる。「鳴ったあ!」「おお、うまい!」
会場におられる関係者や父兄たちもにこやかだ。
昼食時になると本田町長も顔を出された。
まっさらの町長さん。にこやかに挨拶できた。
帰りは特産のかまぼこをお土産にいただいて
樺島港で吊り上げたばかりの「のもんアジ」を2匹買って、気持ちよく樺島を後にした。
積極的に祭りに参加して喜びを共有すること。これが営業のはじまりである。


112.喜びを共有する 返信  引用 
名前:静風    日付:2013/5/12(日) 9:31
2005/11/01

10月30日の長崎県国際交流フェスティバル、
長崎県国際交流協会の主催である。会長は高田前知事、
主管部は長崎地域振興部、部長の横田部長、国際課長、
みな自分達のイベントとして気を使い、イベントの成功を祈って、イベントに顔をだされていた。

末永県会議長も「私もベトナム協会の会長になってるもんだから」と
いって会場に来られていた。
皆さんに親しくご挨拶ができ、感謝もされ、嬉しかった。

私は尺八の会と、胡弓の会の2つでイベントに協力、
挨拶の中でも、それなりに主催者への賛辞をこめて司会を務めさせていただいた。

これから営業を志すものに私が一番言いたいことは「喜びを共有する」ということである。
お願いしたい時だけ頼む、というのではいけない。

「何かあったらいつでも相談にいらっしゃい」という日頃からの信頼関係が
構築されていることが大事なのだ。

164.祭りで喜びを共有する。 返信  引用 
名前:静風    日付:2013/5/12(日) 9:30
8月25日、大村アーケードでの少年夢祭りに演奏協力した。
南は香焼から、東は高来まで私の呼びかけに会派を超えて協力してくれた。
地元ゆめや教室から3名、諌早愛好会から3名、長崎胡弓愛好会から4名の10名、よく集まってくれたものだ。

リハーサル中に松本市長夫人とお話しができた。
1歳半のお子様、身なりはすっかり「天正少年」、とても可愛かった。
ドレスは奥様お手製の模様、嬉しさで顔もほころんでいた。

演奏には内田副市長も観客に混じっていただいた。
野岳湖畔の義太夫記念館での日中交流演奏会以来である。

演奏を終え、メンバーと懇親、帰したあと仮想行列まで残り、
松本市長にも挨拶ができた。

こうしていろいろな祭りに参加し、地域の皆さんと喜びを共有することは
とても大切なこと、
建設業の皆さんもこのことに早く気付いてくれれば、と切に思う。

大村の祭りに「千々石町」の町田団長一行20名が加わっていた。
4少年の一人「千々石ミゲル」を偲んで既に一揃いの装束と、
振り付けを考えていたのだ。

素晴らしい! 「千々石町」は燃えている。


ページ: 1 2 3 4 5 

無料アクセス解析

アクセス解析の決定版!無料レンタルで最大100ページ解析!

   投稿KEY
   パスワード

EZBBS.NET produced by InsideWeb