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龍馬と長崎

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60.(untitled) 返信  引用 
名前:dsfvagi    日付:2015/9/24(木) 22:57
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59.三川内焼による亀山焼の再現(写し)〜2〜 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2009/4/15(水) 10:53
龍馬愛用の器は、白磁に呉須絵の具の藍色で、龍の紋様が描かれています。そして碗の縁に描かれている文様を「角龍紋(かくりゅうもん)」と呼び「平戸藩・絵手本」にも記述があります。
また、蓋付の茶碗の形状を「望龍碗(もうりゅうわん)」といいます。

龍馬は、自身の名前や妻の名前にある「龍」、そして「龍」の字が冠されている器、染付の模様も「龍」で、龍尽くしなのです。

長崎奉行の威信にかけて創設された名窯「亀山焼」を、縁ある三川内焼の技法で再現し、龍馬の愛用した器に踊る「龍の紋様」に着目して、現代の器としてプロデュースしました。長崎の伝統ある文化として、亀山焼の歴史を今に伝え、竜馬の伝説と共に末永く皆様に愛される器でありたいと思います。
(五光窯ホームペジより)
http://www.gokougama.com/

57.三川内焼による亀山焼の再現(写し) 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2009/4/9(木) 15:23
亀山焼は、長崎市伊良林地区にて焼かれた磁器で、1804年に長崎奉行の命によって開窯され、その後、財政難から1865(慶応元)年3月に廃窯したとされています。
同年5月(一説に9月)に龍馬がその工場跡の提供を受け、亀山社中を創立しました。龍馬は、亀山焼の茶碗を、割れて焼き継ぎしてもなお使用しており、かなりの愛着をもって使用していたと思われます。
『日本陶磁器史論』(明治36年・北島似水著)によると、長崎奉行は、平戸藩の窯業事業が盛況で、製品が出島より輸出されている事をうらやみ、平戸焼を手本として窯業事業に着手したと記述されており、亀山焼の原材料には、天草陶石と網代陶石を混ぜて使用したとあります。
網代陶石は、平戸藩の領地から産出され、当時、西欧で絶賛され、出島から盛んに輸出されていた『卵殻手(極薄手の磁器)』の原材料であります。つまり、長崎奉行は、平戸焼の原材料をとりよせ、平戸焼(三川内焼)と同じ品質の磁器を焼きたかったのです。
このことは、亀山焼と三川内焼が、原材料的にも、意匠的にも、類似している事をさします。亀山焼は、現在は途絶えてしまっていますが、その目指すところは、三川内焼に今も受け継がれていると言えます。
(五光窯ホームペジより)

私も、亀山焼の再現に対して、少しアドバイスさせていただきました。

五光窯ホームペジの「龍馬の愛した器」をクリックすると詳細な事が掲載されています。
http://www.gokougama.com/



58.龍の文様
名前:崎陽店主    日付:2009/4/10(金) 12:10
五光窯ホームペジの「龍馬の愛した器」見ました。
地域の窯の活性化に繋がる事を期待します。

「龍」の文様は古くから日本人と言わず沢山の人々が愛した図柄です。
龍にまつわるお話、色々ありますね。

丁度五月の節句の季節ですが、男の子のお祝いに鯉菓子を食べますよね。
鯉は激流の川を上り龍に変身するとか・・・いわゆる登竜門。
立身出世を願う親心なんですね。
富士に昇る龍の絵はお正月の縁起物の図柄にもよく登場します。
中国の皇帝は5本爪の龍の図を使います。

私の「おもいで」のページにも「雲龍文四方鉢」を紹介しています。
http://www.kiyou.net/b3-kameyama.htm

56.長崎さるく「長崎幕末・維新の道を往く」の研修 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2009/3/27(金) 9:56
勝海舟や坂本龍馬ゆかりの地、紀州藩との船舶事故「いろは丸事件」の談判が行われた聖福寺、幕末維新に劇的な転機を迎えた長崎奉行所跡など、隠れた史跡をめぐります。幕末維新の貴重な資料が展示してある長崎歴史文化博物館の観覧料も含むお得なコースです。

長崎歴史文化博物館(長崎奉行所立山役所跡)→西園寺公望仮寓跡→迎陽亭跡 →聖福寺(いろは丸事件談判)→福済寺→本蓮寺(勝海舟寓居の地、沢村惣之丞・お久の墓)

のガイド研修を受けたんですが、各18カ所の案内ポイントをマニアルに従って18人が実際に話をしたんですが、偶然にも龍馬28歳が高知を脱藩した時に同行した21歳沢村惣之丞をの説明をする事になりました。
http://www.saruku.info/course/Y047.html

55.長崎さるく「日本回天の舞台・長崎を訪ねて」の研修 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2009/3/19(木) 6:17
4月23日から「幕末の長崎をさるく」と言う事で、新しい3コースの中の1コースです。
25名程のガイドさん達が研修を受けました。

小松帯刀や五代才助が活動した薩摩藩蔵屋敷跡や、坂本龍馬、岩崎弥太郎らが通った日本三大花街・丸山、龍馬と後藤象二郎の会談で日本回天の舞台となった清風亭跡など、幕末の志士たちが駆け抜けたまちなかを巡るコースです。

出島→薩摩藩蔵屋敷跡→楠本イネ宅跡→丸山→史跡料亭・花月(店外での説明)→大浦慶宅跡→清風亭跡→土佐商会跡→鉄橋
一般向けの2〜3kmのコースです。

予約受け付けていますので、皆さん参加されませんか?
新たな長崎を発見できますよ!
http://www.saruku.info/course/Y047.html

54.長崎県中小企業中央会の月刊誌に2年間「龍馬と長崎」コラム! 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2009/3/17(火) 10:23
長崎県中小企業団体中央会の月刊誌に来月4月号から2年間「龍馬と長崎」のタイトルで連載のコラムを書く事が決定いたしました。

中央会松永専務理事から「龍馬の事を書いてくれないか」と依頼がありましてお引き受けする事になりました。400字程度のコラムです。

2万6千の団体があるそうです。
少しでも、長崎の企業が元気になるような記事を書いていきたいと思います。

53.「観光の起爆剤と今の若者の新たなロマンになれるといいですねぇ。」 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2009/3/15(日) 21:31
崎陽店主のおっしゃる通り、景気低迷が叫ばれる中、龍馬さんを担ぎ上げて長崎だけではなく、日本全体が元気なになりようになったらと思います。

2010年大河ドラマ「龍馬伝」は、1月から11月までの49週49回放送されます。

ドラマの半分以上が長崎が舞台で、ドラマの撮影も2010年の8月長崎で撮影があるようです。

「龍馬伝」の龍馬役は、福山雅治さんで、俳優さんの発表は、6月になるようです。

50.今日から「龍馬と長崎」を書いていきます! 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2009/3/14(土) 12:12
古美術崎陽(きよう)さんの頑固なおやじさん(本人はやさしいおじさんと言っております)から、頼まれたと言うより「この場所は徒歩10分くらいの所に龍馬とゆかりの場所がたくさんあるから、龍馬の事を書きましょう!」と私から話をしました。

この場所は、亀山社中(地元では社中と呼ばれています)から下ったところです。龍馬の写真を撮った上野彦馬写真館もすぐ近くにある所です。龍馬の手紙に出てくる料亭玉川・藤屋も目と鼻の先です。

崎陽(きよう)というのは江戸時代の漢学者が、中国の地名らしく長崎を呼んだものですので、古美術崎陽は骨董屋「古美術長崎」と言うことになりますね!

小さな骨董屋さんですが、長崎が共に好きな骨董屋のおやじさんのHPをお借りして毎日とは行きませんが、「龍馬と長崎」に関係する事を書き続けいきたいと思います。



51.Re: 今日から「龍馬と長崎」を書いていきます!
名前:崎陽店主    日付:2009/3/14(土) 14:30
お世話になります!!

龍馬にとっての長崎は特別な地であったことでしょう。
江戸時代の長崎は江戸、大阪に負けない繁栄を誇っていたのです。
幕末の長崎にはいろんな人達が集ったことでしょう。
明治維新、という時代の流れも長崎という土地があったればこそ、そう思います。

景気低迷が叫ばれる中、観光の起爆剤に是非、龍馬を担ぎ上げてほしいですね。
また、今の若者の新たなロマンになれるといいですねぇ。

49.長崎といえば天草のバテレン、ハビアンが世界に知られる 返信  引用 
名前:児島    日付:2007/8/19(日) 14:44
天草で印刷して作成した「イソボ」物語の話は、何かありますか?
天草版 イソボ物語 大英図書館本
「伊曾保物語」
イエズス会のスペイン人宣教師が「日本の文化を理解し、日本人に説話を使ってキリスト教を教える」という目的で作られた本に伊曾保物語が収録されていたのです。
イエズス会によって紹介された
貴族が着るような装束を白や黒のネズミが身にまとっていたり。それでいてリアルだったりかわいかったり。
「天草本 伊曾保物語」
九州地方の昔の方言も用いたやや特殊な文章となっています(「○○でおじゃった」みたいな感じ)。

46.教えてくれる人いる!? 返信  引用 
名前:クリスチャンの恋人    日付:2007/7/24(火) 14:29
ぶしつけな質問で申し訳ありませんが、キリシタン弾圧の時代「三角木馬」を使った拷問をされた女性キリシタンっていたんですか?
 僕の彼女もクリスチャンなので時代が時代なら捕まったてしまったんでしょうか?どんな手筈でどんな取調べを受けるんでしょうか?



48.三角木馬
名前:古美術 崎陽    日付:2007/8/2(木) 13:54
木馬型で背の尖った拷問具(三角木馬と呼ばれている)に、被拷問者(盗賊、年貢滞納者、隠れキリシタンなどが対象だった)を、全裸、または下半身を裸にした上で、身体を拘束してまたがらせ、本人の体重で股間に苦痛を与える、また石などの重りを用いる場合もある。長時間に及ぶと股が裂けることもあった。

戦国時代の頃から拷問の一種として使われていたのは確実だが、背をわざわざ尖らせたものが用いられたわけではない。角材を組み合わせた荒い造りの結果として尖った部分が背になったとも考えられる。もともと木馬で責め苦を与えると同時に身体を打ちやすいように固定する目的もあった。また江戸時代の公事方御定書には笞打ち、石抱き、海老責、吊り責めが公認の拷問となっており木馬責めは私刑などに用いられたと考えられる。

http://www.kiyou.net/

47.クリスチャンの恋人さんへ 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2007/7/26(木) 7:31
投稿ありがとうございます!

『キリシタン弾圧の時代「三角木馬」を使った拷問をされた女性キリシタンっていたんですか?』

のご質問なんですが、今の時点ではわかりませんので、すぐにお調べしますので、2・3日のお時間をください!

宜しくお願いいたします!

45.ありがとう 返信  引用 
名前:店主    日付:2006/6/19(月) 7:28
ご苦労様でした
これからも宜しくお願いします。

みなさん長崎学よく勉強してください。

http://www.kiyou.net/

44.27 長崎は、キリシタンの町だったんです 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2006/6/18(日) 6:51
長崎の教会は、安土桃山時代から江戸時代の1614年の禁教令(1619年までまでの教会も)まで、長崎には、14の教会がある事を紹介しました。

短いもので2年、長いもので50年も長崎の教会は建っていたんですが、平均すると13年になりました。
実際に調べて、これ程までに教会が建っていた期間が長いとは思いませんでした。

ポルトガル人が長崎の教会がもたらしたものは、単なるキリストの教えだけではなく、病院、孤児院、学問(天文学・数学・地理学・法律学・外国語)西洋文化、印刷術、食文化、ありとあらゆるものを教わったと思われます。

当時の教会は、日本の和風建築を改装した建物で、当時にタイムスリップして、教会めぐりを是非したいなと思っています。

今日で約1ヶ月、長崎の教会については、書いてきたんですが、いかがでしたでしょうか、勉強不足で皆さんにはご迷惑をおかけしました。
今日で終わりたいと思います。
ありがとうございました。

明日からは、長崎と関係のある、孫文について書いていきます。

http://www.kiyou.net/

43.26 長崎は、キリシタンの町だったんです 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2006/6/17(土) 7:54
長崎の開港は元亀(1571)の初夏である。最初に長崎に入港してきたポルトガル船の船長はTristao Vas de Vesigaといったようです。
当時の長崎の町は、港の中につき出ていた岬の上に新しく建てられた教会(サン・パウロ)と其の前に開かれた6町がありました。その町の住人は全て他国より移住してきた信者の人達で1,000人前後はいたようです。

以来、毎年のようにポルトガル船が定期的に入港したので、他国の商人達が集まってきた。
その町の発展には目をみはらせるものがありました。

協会の神父さん達は全てポルトガル、スペインの人達であり、ポルトガル船の人達も自由に町中を歩き、町の人達もすべてが信者であったので毎日曜ごとの教会のミサには、いつも信者で溢れ、ラテン語の賛美歌が遠くまで響いていたそうです。

出島が出来るまでは、長崎の町にポルトガル人たちは、下宿していたんです。

http://www.sarukuhaku.com/

42.25 長崎は、キリシタンの町だったんです 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2006/6/16(金) 8:28
長崎の教会が建立され、壊されるまでの年と何年間教会が建っていたかをまとめてみました。

@トードス・オン・サントス教会(桜馬場)1569年〜1619年 50年間
A山のサンタ・マリア教会(立山町)   1590年〜1614年 24年間
Bサン・ドミンゴ教会(勝山町)     1609年〜1614年 5年間
Cサン・フランシスコ教会(桜町) 1611年〜1614年 3年間
Dサン・アントニオ教会(本大工町) 1694年〜1614年 20年間
Eサン・チャゴ教会(酒屋町) 1603年〜1614年 11年間
Fサン・ペテロ教会(今町) 1607年〜1614年 7年間
Gミゼリ・コルジヤ教会(本博多町) 1883年〜1614年 31年間
Hサン・アウグスチノ教会(万屋町) 1612年〜1614年 2年間
I被昇天のサンタマリア(外浦町)    1601年〜1614年 3年間
Jサンパウロ教会・(江戸町) 1571年〜1614年 43年間
Kサン・ジョアン・バチスタ教会(筑後町)1591年〜1614年 23年間
Lサン・ミゲル教会(立山町) 〜1619年 ?
Mサン・ロレンソ教会(伊勢町)です。 1610年〜1619年 9年間

教会が長崎の街に存在していた年数をまとめてみますと、思った以上に長い期間、教会が建っていたんだな〜と思いました。

http://www.sarukuhaku.com/

40.24 長崎は、キリシタンの町だったんです 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2006/6/15(木) 9:3
Mサン・ロレンソ教会は、現在の伊勢町あたりか、はっきりしません。

豊臣秀吉の朝鮮侵略(1592〜1597年)の時強制連行されて来た5万人の高麗人のうちには長崎に住み着いた者もいますが、その高麗町では7千人余が受洗し、彼ら自信寄付を集め、サン・ロレンソ教会を建てています。

1610(慶弔15)年に建立し1919(元和5)年の9年間建っていた事になります。

http://www.sarukuhaku.com/

39.23 長崎は、キリシタンの町だったんです 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2006/6/14(水) 8:6
Lサン・ミゲル教会の詳細がわかりました。

現在の長崎市役所別館の地には、1612(慶長17)年にサンフランシスコ教会があり、その辺りにサン・ミゲル墓地というキリシタン墓地があった。この墓地は、山のサンタ・マリア教会と炉粕町のあいだにあった。1619(元和5)年この墓地の教会が破壊され他の墓地に葬られた遺体は全部、サン・ミゲルに移された。のちここに牛舎ができて桜町牢と呼ばれ、浦上四番崩れのとき浦上の信徒が入れられた。。(長崎事典・歴史編 長崎文献社)

http://www.sarukuhaku.com/


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