[ ホームページ ] [ 携帯用URL ]
信心歓喜

[ EZBBS.NET | 新規作成 | ランキング | オプション ]
iモード&(絵文字)、au対応!ケータイからも返信できる無料掲示板!
名前
 E-mail 
題名
内容
投稿KEY    改行有効 等幅フォント
URL



815.(untitled) 返信  引用 
名前: 春間 則廣     日付:2013/7/23(火) 8:29

「 このページは、一般の方々と
  対話をする目的で開設致しました。 」

溝をつくって、 タイガン の 非

願 に 還 って  カンガエル ガン



816.Re: (untitled)
名前:MK    日付:2013/7/24(水) 21:11
「一般の方々と」といった場合、そう言っている人がどういう立場でその「一般の方々」と言っているか。そのことを問題にしてるのでしょうか?

宗教者の立場に立って「一般の方々と対話・・」という、そういう態度は正直、傲慢だと思います。

自分を宗教者と言った場合、その時点で自分の中に真実がある。或いは自分は真実をある程度は知っているとそんな立場に立ってしまうのでないでしょうか。

親鸞は「自分の中に真実は全く無い」と悲嘆しながらも、自己を包む真実に喜びを見出したのではないでしょうか。

宗教者という立場に立つ(執着する)こと自体が闇ではないでしょうか。

親鸞は、そういう自分の立場に執着する心から解放してくれる、「よき人の生きる姿勢」を思いながら「南無阿弥陀仏」と、となえてたのではないでしょうか。

811.一般 に 対応する概念 返信  引用 
名前: 春間 則廣    日付:2013/1/18(金) 11:40
一般の方に、
あなたは入りませんか ?

真宗は どこに立って、 ブツを見るのですか ?

何処に立って ナンマイダブ と ただただ 口にするのですか ?



813.Re: 一般 に 対応する概念
名前:titular president    日付:2013/4/3(水) 0:37
御質問の意味がよくわからないのですが、独断と偏見で答えさせて頂きます。

私の知り合いの娘さんが今年度から大学4年生で、目下就職活動中なのですが、その人の書いた作文を見せてもらう機会がありました。
いろいろ話題があったのですが、中でも注意を引いたのは、就職活動の面接で「あなたは誰ですか?」という質問を毎回投げかけられるとのことです。
その人は自分がカナダにホームステイで留学した経験があって、「自分のこと」を考える時間をいっぱい得ることができたそうです。そしてその結果として、一つの企業の選考に落ちても「大丈夫、次がある」。
カナダ人から「あなた語学が全然わかってないね。」と指摘されても、「この人は、私の言葉をもっと上達させて欲しいのかな」とか、「もっと、色んなこと、私と話したい、ってことかな」とか、相手の言葉をポジティブに、しかも割と自然体に受け止められる性格を獲得することができた、と話していました。

「あなたは誰か?」、「自分は何者か?」この問いは古今東西の哲学の一番根本的、最重要の命題です。就活の学生はこれに無理にでも答えなければならないのですが、この機会でなくてもきちんと答えを出せる人は稀です。

そうした経緯を踏まえて、「一般に対応する概念」ついてにお答えします。
まず伝説によると、釈尊は出生の時「天上天下唯我独尊」と獅子吼されました。「この世界に二人といない、「私」というかけがえのない命を授かった。」その命の尊さ、生まれてきたこと、今生きていることの大切な意義を確かめる、という解釈が真宗大谷派では為されています。
阿弥陀経に「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」とあるように、極楽浄土の世界では、みなそれぞれの輝きが尊重されるというのです。

ですから、真宗では仏様の前では一切の衆生が皆、世界に一つだけのオンリー ワン「特殊なもの」として尊重されるという考え方です。

しかしこれは単なる「個性」の尊重ではありません。
個性を無制限に認めれば、人間という動物は悪業・煩悩・三毒にまみれた、放っておいたら人殺しでも何でもやる汚れた存在です。

仏様に「煩悩具足の凡夫」と呼びかけられ、自分のいいも悪いもひっくるめた人格全てを受け入れて頂き、お経・極楽浄土の荘厳・戒律と、醜い自分の姿を対比させて、仏法を鏡として自分自身を見つめる。
その仏様の慈悲に包まれて、自己を批判的に捉え、仏様に肯定してもらう。
仏様に自分を肯定してもらって、初めて成り立つ自我。

釈尊の遺言に、「自灯明、法灯明」とありますが、その自己とは縁起によって他者との関係性の中だけで存在が可能な、「空」なる自己です。
頼りになるのは、釈尊の遺された仏法だけで、この仏法は自分を肯定してくれる根拠となるものですから、これが他者、他の人間に入れ替わっては、その他人に全てを支配されてしまいます。
まあ本当の仏法でさえも、釈尊に支配されてしまうという危険性もありますが、宗教とカルトとは紙一重です。

何が言いたいかわからない文章になってしまいましたが、真宗の立ち位置は、仏様の慈悲に包まれて肯定された自己。自己を見つめれば反省、懺悔の毎日です。
真宗では、我々が仏を見るのでなく、仏様が苦悩する我々を探して見つけて下さる。

以上で回答になっているでしょうか?


814.Re: 一般 に 対応する概念
名前: 春間 則廣     日付:2013/7/18(木) 10:54
この掲示板の対象が “一般の方” と なっています

浄土真宗の 僧侶は 一般の人と、どう違いがあるのですか

ちなみに、わたしは
“ 一般的に言う ” と、(仏教)学者の分類に入りますが、
まさしく 一般人です

大正新脩大蔵経 と 国訳大蔵経 と 南伝大蔵経
ウパニシャッド全書 を 蔵書としています
( 全部詳しく眼を通しています )

その一般人とに、どう違いを見つけますか ?


817.Re: 一般 に 対応する概念
名前:titular president    日付:2013/7/30(火) 0:25
「僧侶」と「一般人」の違いですか?
どちらも同じ人間です。人間の中での分類です。

その分類も実に形式的で、本質的には変わりない者同士(仏様の救いの対象となる一切衆生の一人)だと思いますが、あえて分類する意味としては、『大智度論』に「如是我聞」の「我」とは、仏教は無我を説いているが、なぜ経典に「我」という言葉が出てくるのか?
それは、確かに「無我」であり、「我」というものはないが、経典を広め、衆生を度するために、「私」という一人称を指す言葉が必要だから、世間の常識に合わせて「我」という言葉を使っているに過ぎないという話しが出て来ます。

これと同じように、「僧侶」とは住職などとして寺を守り、法脈を受け継ぎ、布教使として仏教の教えを広める人。
「一般人」とはただの信者・門徒・それとも関係のない他人等々「僧侶」ではない人。

「僧侶」も「一般人」も同じ人間で、この問題も所属する社会の「言語」というシステムに従っただけの定義であり、敢えて違いを見つけようとする深読みはナンセンスだと思います。


818.Re: 一般 に 対応する概念
名前: 春間 則廣     日付:2013/8/2(金) 15:42
> 「僧侶」も「一般人」も同じ人間で、この問題も所属する社会の「言語」というシステムに従っただけの定義であり、敢えて違いを見つけようとする深読みはナンセンスだと思います。

そこに潜む 放漫 な 自己解釈  に目をそ向ければ

自己は正当化されます

潜んでいるけれど、
自分で掘り出すことです

人の掘り出し方には、不満を掘り出す
自分は
そのまま

慢のまま

無いと言えばないのが、 慢 で

見つけたくないモノが 自らにある慢です


昨今の 麻生の発言をよく考えなさい


819.Re: 一般 に 対応する概念
名前: 春間 則廣     日付:2013/8/2(金) 15:45
> 人の掘り出し方

他人 の掘り出し方  に 訂正

人としての正しい掘り下げ方
としてもよいでしょう


820.Re: 一般 に 対応する概念
名前:titular president    日付:2013/8/4(日) 16:13
はあ、「慢」と「自己正当化」はいつも我々がやりがちな悪いことなので、日々注意して生きて行こうと思います。


821.Re: 一般 に 対応する概念
名前: 春間 則廣     日付:2013/8/6(火) 11:20
> いつも我々がやりがち

我の事を観じなさい

 我々  という時の
 “々” と 仲間を設定する意味 は どこにありますか ?

我々に、わたしは入り
我々に、 聖者も入る

“わたし”には 誰もが入る 
 聖    も 入る


822.Re: 一般 に 対応する概念
名前:titular president    日付:2013/9/3(火) 8:6
>我々に、わたしは入り
>我々に、 聖者も入る

>“わたし”には 誰もが入る 
> 聖    も 入る

おっしゃる通りだと思います。


>我の事を観じなさい

はい。まず見なければならないのは「我」ですね。
まず自分自身を見つめて、その自分をどう理解するのか。

過去から最近までの自分の行動を反省してみて、その出会った自分が「穴の中に入りたい」くらいろくでもないもの、他人や社会に対し言い訳ができないほど悪いものであったなら、そこから親鸞聖人のお言葉への入り口ができます。
私は「地獄は一定すみかぞかし」の、もうどうしようもない悪人でありましたとの反省・自己批判が出てきます。

「我々」はみんな同じことをしている、と「我」を正当化することはできません。
むしろ、鏡で自分の悪いところを嫌というほど見せつけられて慙愧の思いを生じてくると、他人(「我々」の「々」)を、みんな同じ、悩み迷える凡夫だと同情する気持ちも生じてくるのでしょう。


823.Re: 一般 に 対応する概念
名前: 春間 則廣     日付:2014/1/4(土) 17:50
> はあ、

ボケてんじゃない !

> 「慢」と「自己正当化」はいつも我々がやりがちな悪いことなので

あなたの答えに

「慢」と「自己正当化」 を 見るのは、わたしの 「慢」 かな ?

我々がやりがち
という時の、我々に 誰を入れて、 誰を仲間としたいのですか ?

他人事 はどうでもよい

自分事を省みなさい

やりがち ではなく、 ”やっていること” と 見られているのです


824.Re: 一般 に 対応する概念
名前:titular president    日付:2014/1/6(月) 21:46
>「慢」と「自己正当化」 を 見るのは、わたしの 「慢」 かな ?
>やりがち ではなく、 ”やっていること” と 見られているのです

私をはじめ、「慢」に陥っている当事者にはどんなに気をつけても自分が見えないものです。
仏法を鏡として自分を見つめるのですが、やはり仏法への理解不足のため、少ししかわからない。
私はいつも「慢」と「自己正当化」で生きているのですね。春間さん、御指摘ありがとうございます。


>我々がやりがち
>という時の、我々に 誰を入れて、 誰を仲間としたいのですか ?

おっしゃる通り、まず一人称の私、自分自身を見ることが一番肝心要です。
仏様の教えに出会って、自分の悪に気付き、反省、慙愧・懺悔し、その後、仏様の御慈悲は自分だけでなく、全人類に向けてかけられていることを知り、やはり人間は全てが、迷い・悩み・苦しむ、自分と同じ仏様の救いの対象となる凡夫なのだと気付き、共感・同情の心も湧いてきます。
ですから仲間にしたい「我々」とは一切衆生、全人類です。
もちろん「みんながやっているから、自分もやっていい。やっても仕方ない。」と正当化してはいけません。(いつもやっていますが・・・)

全ての人が極楽へ往生できると仏様が言っておられるから、私もその中の一人になれる。
全ての人が凡夫であり、悩み・苦しみ・迷っていて、仏様の救いの対象となるから、全ての人を自分の御同朋として見出だすことができる。


825.Re: 一般 に 対応する概念
名前: 春間 則廣     日付:2014/1/14(火) 13:2

結局、君は、すべての人を道連れにしたい

君が問題です

あなたと(君と)、わたしだけが、“自”獄に住む

自 というモノは、 親鸞とわたし で、初めて成り立つモノです

あなた と わたし と  親鸞がいる
それを略すと、あなた と わたしがいる  とも、
親鸞とあなたがいる とも 言える

地獄とは、 世間(虚仮)の行き着くところです

    ここにいること  を見つめる 立場  を 得て、
初めて、地獄から   浮き上がる    立場  を 得る

ここが 一定住処 で あっても、
一乗を知るモノは、昇る道にいる

上下左右は人の商量に過ぎません
地獄は足元にあり、浄土は頭上にある
といっても、
すべてわたしの心の中に生まれている

それを 賜う


あなたが自らを救って、初めて他人をスクウことができる

そういうことが 出来ることを 賜っている

自らを救うには、 スクウ 立場を得なければ 、、、、

得ていないと見る立場が、その立場 ( ジゴク ハ イチジョウ スミカ ゾ カシ )

「地獄は一定すみかぞかし」

親鸞の言葉は 真実です

読み方(聞き方)によって、 “ 如是我聞 ” は 成り立つ


オーム の聞くのも、仏の声

807.はじめまして。質問させて下さい。 返信  引用 
名前:MK    日付:2012/7/20(金) 22:26
はじめまして。
私もたまたま真宗を聞く縁をたまたまいただいておりまして、
ホームページを拝見させていただいてる中でいくつか疑問がありましたので、失礼とは思いますが質問させて下さい。

一つ目の質問ですが、ホームページに、「日頃悪いことをしている私でさえ救って下さるのか」という頷き」が大切だということが書いてありますが、この「日頃悪いことをしている私でさえ・・」という意識には暗に善人はなお救われるという意識があるはずです。
これは、歎異抄第三章で言えば「悪人なを往生す、いかにいはんや悪人をや」という意識で、いわゆる善人意識だと思います。
どうお考えになりますか?

二つ目の質問です。
教行信証の講義について、他人の言葉を話すのでなく、自分の言葉で話たいとのことですが、
お経はそもそも我聞如是からはじまっていて、聞いた内容を説いています。また親鸞も教行信証の大部分は七高僧などの言葉の引用です。
真宗においては、自分の思いや考えを超えた、よき人の仰せをこうむる
ことが中心だと思います。
なので私は「他人の言葉でなく、自分の言葉で話したい」という考えには疑問を感じます。

だいぶ失礼なことを言ってるとは思いますが。
正直に思うところを述べさせてもらいました。



808.Re: はじめまして。質問させて下さい。
名前:titular president    日付:2012/9/22(土) 23:41
横レス失礼します。私も同じことを考えていたので、出しゃばりながら参考までに意見を言わせて頂きたいと思います。

一つ目の御質問ですが、歎異抄第一条に「老少善悪の人を選ばれず」とあります。悪人でも救われる、善人でも救われるからなおさらだ、と第三条にありますが、それ以上に仏様の智慧はそのような人間の計らい、価値判断を超えている。善人だろうが悪人だろうが、仏様は摂取不捨の利益により、救われないものはないのです。
「一切の有碍に障りなし」、善悪、信不信等の人間の計らいで崩れるようなヤワな力ではないのです。

そのような仏様の強力な我々を救う力が働いて、(法の深信)私は必ず救われるのだという確信のもと、仏様の智慧に照らし出されて、例えば「十善戒」に自己を引き当ててみれば、全く守れていない現実に突き当たる。自己をありのまま、正直に見渡せば、悪人の行為以外の何でもない、愚かな覚束ない自分の醜い姿に突き当たる。徹底した自己批判が待っています。
そこで自分でも他人でもない、確かなものに頼り、心の拠り所を求めようとする。(機の深信)
人間が苦悩する存在だから仏様が存在し、仏様がいるおかげで私達は苦悩の中に安らぎを得ることができる。

善人意識(自己を過信する慢心、自己中心的な心の持ちよう)は、浄土真宗への理解と信心が深まれば、やがて解消されていくものではないでしょうか?
そうでなくても、お念仏と、御聴聞の積み重ねにより、その都度自分を鏡で見るように、直していくことは可能なのではないかと思います。


二つ目の御質問ですが、御聖教の引用でなく、足りない自分の言葉で仏法を語るということの問題点ですが、当然勉強不足による無知、我見・邪見といった煩悩により、教えを誤解、曲解して話をすることも多くあります。
しかし、その人が教えをきちんと理解できているか試すのには、自分の言葉でしゃべらせてみなければわかりませんし、それ以上に大切なのは、仏教の教えがその人の実生活、話し言葉、行動の上に、生きた宗教として働いているかどうか、という実用的に仏法を活かすという課題が課せられているのです。
私はやはり、仏法は人を助けてなんぼのものだと理解していますから、祖師たちの言葉によって救われたという実際の経験談を大切にしたいと思っています。

かなり私見に偏った意見になってしまいましたが、この意見は悲心先生とは関係ないということをお断りしておきたいと思います。


809.訂正させて頂きます。
名前:titular president    日付:2012/10/17(水) 23:56
前のレスで「善人意識」は真宗への理解と信心が深まれば、次第に解消されていくと書きましたが、間違いに気付きましたので訂正させて頂きます。

人間は自分をどこまでも正当化したがる生き物です。というか、自分の行動規範として、わざわざ間違ったこと、悪いことをやりながら生きていると言う人はごく少数です。そういう人は世間の人から「悪いことを知っていて故意に悪い生き方をしている」と責められます。

現実社会は理論理屈論理で筋を通した人の意見が通ってしまいます。
善人意識はなくとも、「悪いことは一切していない」「自分の意見は正しい、反対者は間違っている」これを押し通した方が勝ちの世界です。そんな世の中に自分も適合して生きて行かなければならない。

そうした世界にいつも真実があるとは限りません。「たわごと、そらごと、まことあることなきに」
いかに自分が普段から、五逆十悪、誹謗正法の、如来から唯除されている行いをしているかということを思い知らされるのです。

善人意識、自己を正当化する心は、生きている限りいつも頭をもたげてきて、無くなるものではありません。

そうした深い煩悩を抱えた私達に仏様は、「唯除五逆誹謗正法」と罪の重きを知らせんがため、日々の懺悔、反省、改心を促し、一方でそうした偽善者をも摂取して捨てない、大安楽を用意されているのです。

徹底した自己批判、自己洞察、自己客観視、毎日日夜反省して自分の行いが善か悪か問い続ける、これが真宗の信者の持つべき信心の内容ではないかと思います。

つまり、善人が救われないのでなく、普段日常からもたげてきた善人意識と戦い続けるのです。仏法、お念仏、ご聴聞を鏡として自分を見つめるのです。


810.大変レスが遅れて申し訳ありません。
名前:hisin    日付:2012/10/25(木) 22:42
第一に、なかなか人間は善人意識から離れることができません。
それも凡夫である性でしょうか?MKさんのおっしゃられる通りと
思います。この善人意識は自力のこころ、と言ってもよいでしょう。
なかなか悪人の自覚もできない善人ですらも救っていただける、
非常に有難い阿弥陀さまのおこころを感じています。

第二に、「他人の言葉だけでなく自分の言葉で話したい」と
書いた背景には、「有名な先生から教えていただいたことを
あたかも自分が発見したように話しておられる人がいる」という
ことに対する怒りのようなものです。
あの頃は、私は若かったものですから、「教えていただいたことは
私の尊敬する○○先生から聞きました」というように
きちんとすべきだ、先生ぶるのはやめてほしい、
そんな自分の手柄みたいに話すなら自分の言葉で話せ、と
言いたかったのです。それだけのことですが、MKさんが疑問に
感じられたのは、私の怒りみたいなものがあったからだと
思います。MKさんは理にかなったことを指摘されていると
思います。有難うございました。


812.Re: はじめまして。質問させて下さい。
名前:MK    日付:2013/3/5(火) 21:1
丁寧な返信ありがとうございます。
レスを読んでみて、私が「善人意識をなくせるもんだ」という立場で前回の質問をしていたのだなと気づきました。

ありがとうございました。


ページ: 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 >> >| 

無料アクセス解析

アクセス解析の決定版!無料レンタルで最大100ページ解析!

   投稿KEY
   パスワード

EZBBS.NET produced by InsideWeb