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 長崎の歴史**鎮信流の歴史

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12.松浦 詮 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/28(木) 11:41
松浦 詮(まつらあきら、天保11年10月18日(1840年11月11日) - 明治41年(1908年)4月13日)は、肥前国平戸藩最後の第12代藩主(松浦家第37代当主)・茶人。第10代藩主・松浦熈の三男の松浦秋の長男。肥前守。三女都子は伊達宗基伯爵夫人。

維新後の廃藩置県により誕生した平戸県の県知事。宮内省御用掛を経て貴族院議員となる。のち伯爵正二位勲二等に叙される。

1880年(明治13年)、現在の長崎県立猶興館高等学校の基礎となる猶興書院を設立。

肥前国平戸藩の第4代藩主・松浦鎮信(天祥)が興した武家茶道の流派である鎮信流を継承する、石州流鎮信派の家元でもある。婦女子教育の一貫としての茶道を女子学習院、日本女子大学その他の学校で指導した。

長崎県平戸市にある、松浦資料博物館は松浦詮公の旧邸である

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11.支藩 平戸新田藩 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/26(火) 11:14
支藩
平戸新田藩
平戸新田藩(ひらどしんでんはん)は、平戸藩の支藩。藩庁として館山(長崎県平戸市)に陣屋を営んだ。平戸館山藩(ひらどたてやまはん)とも言う。 元禄2年(1689年)平戸藩5代藩主棟の弟・昌は1万石を分与され、平戸新田藩が立藩した。明治3年(1870年)本藩に併合され廃藩となった。

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歴代藩主
松浦(まつら)家
外様 10,000石

昌(まさし)〔従五位下、豊後守〕
邑(さとし)〔従五位下、豊後守〕
鄰(ちかし)〔従五位下、豊後守〕
到(いたる)〔従五位下、大和守〕
宝(たかし)〔従五位下、大和守〕
矩(ただし)〔従五位下、大和守〕
良(ちかし)〔従五位下、織部正〕
晧(ひかる)〔従五位下、豊後守〕
脩(ながし)〔従五位下、左近将監〕
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関連項目

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10.松浦 家 歴代藩主 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/25(月) 11:26
歴代藩主
松浦(まつら)家
外様 63,200石→61,700石→51,700石→61,700石

〈 〉は号。
鎮信(しげのぶ)〈法印〉〔従四位下、肥前守〕
久信(ひさのぶ)〈泰岳〉〔従五位下、肥前守〕
隆信(たかのぶ)〈宗陽〉〔従五位下、肥前守〕
鎮信(しげのぶ)〈天祥〉〔従五位下、肥前守〕分知により61,700石
棟(たかし)〈雄香〉〔従五位下、壱岐守 奏者番・寺社奉行〕分知により51,700石
篤信(あつのぶ)〈松英〉〔従五位下、肥前守〕
有信(ありのぶ)〈等覚〉〔従五位下、壱岐守〕
誠信(さねのぶ)〈安靖〉〔従五位下、肥前守〕
清(きよし)〈静山〉〔従五位下、壱岐守〕
熈(ひろむ)〈観中〉〔従五位下、肥前守〕
曜(てらす)〈諦乗〉〔従五位下、壱岐守〕
詮(あきら)〈心月〉〔従五位下、肥前守〕支藩併合により61,700石

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9.平戸藩 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/24(日) 10:23
平戸藩(ひらどはん)は、肥前国北松浦郡および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(長崎県平戸市)。

略史
現在の長崎県北部の豪族であった松浦党より台頭した隆信は肥前北部及び壱岐を征する戦国大名となった。その子の鎮信(法印)は天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐の折、旧領である北松浦郡・壱岐を安堵された。続いて慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東軍に付いた松浦氏は徳川家康より6万3千石の領地を安堵され平戸藩が確立した。

4代鎮信(天祥)は従弟の信貞に今福領1,500石を分知した。彼の治世の寛永18年(1641年)オランダ商館が平戸から長崎に移される。幕府は例外措置としてこれまで天領都市にしか認められていなかった糸割符制度に平戸商人が参加する事を許したものの、藩財政は大きな痛手を被ることとなった。以後、藩の内政を立て直すべく検地を行い、農・漁・商の振興を推進し藩財政の基礎を固めた。貞享4年(1687年)には家臣の給与制度を改革し、知行制から俸禄制へと切り替えた。

5代藩主棟は元禄2年(1689年)弟の昌に1万石を分与し、平戸新田藩が立藩した。棟は外様大名でありながら奏者番兼寺社奉行に累進した。しかしこれに伴う出費と、宝永4年(1707年)の平戸城再建により藩財政は困窮するに至った。

9代清(静山)は歴代で最大となる改革「寛政の改革」を断行、国許・江戸の政治と財務の大幅な組織改革を行った。また、彼は全278巻に及ぶ随筆集『甲子夜話』を著したことで有名である。

最後の藩主である12代詮の時代に幕末を迎える。第二次長州征伐の後、藩論は倒幕に傾斜し、慶応4年(1868年)戊辰戦争勃発直後、官軍方への参加を明確にした。同時に軍制改革により洋式の銃部隊を編成し、奥州へと転戦した。
明治4年(1871年)廃藩置県により平戸県となった。のち、長崎県に編入された。
明治17年(1884年)松浦家は伯爵となり華族に列した。

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8.松浦 熈 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/21(木) 11:40
松浦 熈(まつら ひろむ、寛政3年4月11日(1791年5月13日) - 慶応3年6月27日(1867年7月28日))は、肥前国平戸藩の第10代藩主。第9代藩主・松浦清の三男。官位は従五位下、肥前守。正式な名のりは源熈(みなもと・の・ひろむ)。

1806年、父・清の隠居に伴なって家督を継ぐ。彼の跡は、1841年に長男の松浦曜が継いだ。

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7.松浦 清 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/19(火) 13:40
松浦 清(まつら きよし、1760年3月7日(宝暦10年1月20日) − 1841年8月15日(天保12年6月29日))は、江戸時代中・後期の大名。肥前国平戸藩の第9代藩主。父は第8代藩主・松浦誠信の三男・松浦政信(清は長男)。正式な名のりは源清(みなもと・の・きよし)。母は政信の側室・友子(母袋氏)。官位は従五位下。壱岐守。死後に贈従三位。幼名は英三郎。号は静山。大名ながら心形刀流剣術の達人であったことでも知られる。

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経歴
清の父・政信は本来ならば誠信の後を継ぐはずであったが、1771年に早世してしまった。このため、清は祖父・誠信の養嗣子となり、1775年の祖父の隠居により家督を継いで藩主となった。ところで、誠信までの松浦氏の当主のほとんどは二字であったが、なぜ清から再び一字になったかと言うと、それは有職故実を重んじる清が、祖先にあやかりたかったために再び一字に戻したのだと言われている。ちなみに、現在の松浦氏の当主まで、その名は一字で通されている。

さて、清が藩主となった頃、平戸藩は財政窮乏のために藩政改革の必要性を迫られていた。このため清は、『財政法鑑』や『国用法典』を著わして、財政再建と藩政改革の方針と心構えを定めた。そして経費節減や行政組織の簡素化や効率化、農具・牛馬の貸与制度、身分にとらわれない有能な人材の登用などに務めている。また、藩校・維新館を建設して人材の育成に務め、藩政改革の多くに成功を収めた。しかし、藩校を維新館と定めたことから、幕府より「維新とはどういうことだ」と言いがかりをつけられたという。しかし、清の正室の父は幕府の老中経験者であったから、清に幕府転覆の意思があったとは考えにくい。どうもこの維新館は、『詩経』から取った言葉であると言われている。

1806年、三男の松浦熈に家督を譲って隠居し、以後は執筆活動に従事する。清は文学者としても秀でており、1821年11月の甲子の夜に執筆したということで有名な江戸時代を代表する随筆集『甲子夜話』や剣術書『剣談』など、多くの重要な著作を残している。特に甲子夜話は正編100巻、続編100巻に及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。また、松平定信とも交友関係があったらしい。

1841年、82歳で死去した。清の名前より、松浦静山としてのほうが通っているとも言われている。

ちなみに、清は17男16女に恵まれている。そのうちの11女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。つまり、現在の天皇家には、この清の血も少なからず受け継がれているのだ。

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6.松浦 誠信 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/16(土) 11:53
松浦 誠信(まつら さねのぶ、正徳2年3月11日(1712年4月16日) − 安永8年4月29日(1779年6月13日))は、江戸時代中期の大名。肥前国平戸藩の第8代藩主。第6代藩主・松浦篤信の次男で、第7代藩主・松浦有信の弟。官位は従五位下、肥前守。正式な名のりは源誠信(みなもと・の・さねのぶ)。

兄・有信の後を受けて藩主となった。後継者は三男の松浦政信と定めていたが、その政信は1771年に自身に先立って死去する。このため、政信の子・松浦清を自身の後継者として定めた。

1775年に隠居し、後を孫の清が継いだ。その後、1779年に病死した。

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5.松浦 有信 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/15(金) 10:59
松浦 有信(まつら ありのぶ、1710年6月4日(宝永7年5月8日)-1728年9月28日(享保13年8月25日))は、肥前国平戸藩の第7代藩主。父は第6代藩主・松浦篤信(有信は長男)。母は小宮氏。正室は松平信祝の娘・多代。官位は従五位下。壱岐守。正式な名のりは源有信(みなもと・の・ありのぶ)。

1710年5月8日生まれ。1727年、父が病気を理由に隠居したため、その後を継いで藩主となった。そして父の後を受けて藩政改革に乗り出したが、翌年に病に倒れ、8月25日に平戸城にてあっけなく死んだ。享年19。嗣子が無く、弟の松浦誠信を養嗣子として後を継がせた。墓所は平戸市の雄香寺。法号は等覚院殿前壱州太守天麟英心大居士。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E6%9C%89%E4%BF%A1" より作成

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4.松浦 篤信 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/14(木) 11:37
松浦 篤信(まつら あつのぶ、1684年8月26日(貞享元年7月16日)−1757年1月22日(宝暦6年12月3日))は、肥前平戸藩の第6代藩主。父は第4代藩主・松浦鎮信(篤信は三男)。正式な名のりは源篤信(みなもと・の・あつのぶ)。母は岡氏。正室は稲葉正則の娘。側室は池内氏、松村氏、小宮氏、伊藤氏。官位は従五位下。肥前守。

1684年7月16日、江戸浅草に生まれる。兄で第5代藩主であった松浦棟の長男・松浦長が早くに死去したため、1696年に棟の養嗣子に指名された。1713年2月11日、兄の隠居により家督を継ぐ。藩政においては「田畑割御定法」を制定して農村再編を図り、さらに向後崎番所を設置するなどして藩政改革を図ったが、あまり効果は無かった。また、兄と違って十一男八女という子女に恵まれている。1727年、病気を理由に家督を長男の松浦有信に譲って隠居し、1756年12月3日に73歳で死去した。墓所は墨田区の天祥寺。後に平戸市の雄香寺に改葬された。

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3.松浦 棟 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/13(水) 11:58
松浦 棟(まつら たかし、1646年11月1日(正保3年9月24日)−1713年11月9日(正徳3年9月22日))は、江戸時代前期の大名。肥前国平戸藩の第5代藩主。第4代藩主松浦鎮信の長男。正式な名のりは源棟(みなもと・の・たかし)。正室は松平信綱の娘・百。側室は奥田高秀の娘・嘉智。官位は従五位下、壱岐守。号は雄香。

経歴
1646年9月24日、江戸浅草にて生まれる。1689年、父の隠居により家督を継いだ。同年、江戸城奥詰、1691年には寺社奉行を兼務する。さらに長崎の検察官なども務めた。藩政においては初代藩主・松浦鎮信時代に火事で無くなった居城・亀岡城を築城し、荒廃で苦しむ農民の救済に尽力した。また、優れた文化人であり、「履担斎遺文」160巻という自らの日記を残し、現代における貴重な史料となった。

しかし家庭的に不幸な人物であった。自らは腰痛に長年苦しめられ、妻には先立たれ、挙句の果てには後継者として目し、将軍・徳川綱吉の寵愛を受けていた長男・松浦長が早世してしまうという不幸が相次いだ。このため1696年、弟の松浦篤信を養嗣子として迎え、1713年2月11日に腰痛を理由に家督を譲って隠居したが、同年9月22日に病に倒れて死去した。墓所は平戸の雄香寺。法号は雄香寺殿前壱州太守俊林宗英大居士。

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2.松浦 久信 返信  引用 
名前:崎陽店主    日付:2006/9/11(月) 16:3
松浦 久信(まつら ひさのぶ、元亀2年(1571年) - 慶長7年8月29日(1602年10月14日))は、安土桃山時代、江戸時代前期の大名。肥前国平戸藩の第2代藩主。初代藩主・鎮信の子。正室はキリシタン大名として著名な大村純忠の娘(メンシア)。官位は従五位下、肥前守。

1600年、関ヶ原の戦いで西軍に与して伏見城攻めと伊勢国安濃津城攻めに参陣した。しかし父の鎮信が肥前神集島で開かれた去就会議に参加して東軍に加わることを決めたため、久信は戦後に処罰を受けることもなく、所領を安堵された。父から家督を受け継いだのは、関ヶ原の戦い前後くらいだと言われている。

1602年、32歳で急死。徳川家康より帰国を許されずに京に留め置かれたために将来を悲観して切腹したという説もある。久信の後は、子の隆信が継いだ。

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1.茶道の鎮信流の流祖 返信  引用 
名前:増田泰之    日付:2006/9/1(金) 10:6
松浦 鎮信(まつら しげのぶ、1549年(天文18年)−1614年7月3日(慶長19年5月26日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての大名。平戸の松浦氏第26代当主。平戸藩初代藩主。松浦隆信の嫡男。官位官職は従四位下、肥前守。正式な名のりは源鎮信(みなもと・の・しげのぶ)。法号は法印。

経歴
1568年、父から家督を譲られた。この頃、肥前国では龍造寺隆信の勢力が台頭し、鎮信もその膝下に組み込まれることを余儀なくされたが、1584年に龍造寺隆信が戦死すると、再び独立した。1587年、父と共に豊臣秀吉の九州平定に参陣して所領を安堵されている。1592年から秀吉が死ぬ1598年までの6年間、朝鮮出兵に出陣した。

1600年の関ヶ原の戦いでは、鎮信の子・松浦久信は西軍に与して山城国伏見城攻めや伊勢国安濃津城攻めに参加したが、本国に在国していた鎮信が肥前の神集島で開かれた去就会議に参加して東軍に与することを決定した。また、1599年、日ノ岳城(後の平戸城)建設に着手するが、徳川家康の信任を得るために建設途中で焼却した。これにより、戦後、所領を安堵され、平戸藩初代藩主となった。なお、平戸城が再建されたのは約100年後の1707年、第5代藩主松浦棟の時代になってからである。

その後はオランダ、イギリスの商館を建設して平戸貿易に尽力する。また、領内におけるキリシタンの排除も行なった。


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